わが心の銀河鉄道
宮沢賢治物語

1996/10/20 渋谷東映
松竹の『宮澤賢治・その愛』との差違の間に本物の賢治がいる。
賢治が好きな人は両方観なきゃだめよ。by K. Hattori



 同じ宮沢賢治の伝記映画ということもあって、先に封切られた松竹の『宮澤賢治・その愛』と比べてしまうのもやむを得ないでしょう。2本の映画は正面から激突するかと思わせておいて、結局は上映期間をずらしてすれ違いに終わりました。こういうのって、互いに示し合わせているのかなぁ。松竹版がひたすら一人の人間としての賢治を掘り下げ、彼の作り出した童話や詩の世界をあえて避けて通ったのに比べると、東映版は物語の随所に賢治の童話を織り込んで行く構成。賢治の創作世界のファンには嬉しい映画でしょう。

 松竹版が賢治の生涯を挫折の連続で、結局最後まで何も為し得なかった人生と評価したのに対し、東映版はもっと賢治に対して優しい目を向けている。賢治の人生は挫折の連続ではあったが、彼はそれを糧として成長して行く。死の直前、賢治は自分の創作活動を「自分の迷いの結果だった」と言い、「今はもう迷わない」と言い切る。賢治はこの最晩年に完成された人間になったことと引き換えに、作家から普通の人になってしまったのです。

 東映版はエキセントリックな賢治の性格を「親しみやすい普通の人間」にすることに熱心で、賢治の法華経や日蓮宗への傾倒も、若い未熟さゆえの一時の回り道として描いているように見えた。賢治の法華経への信心は本物で、それは遺言として経典の印刷を残したことからも明らか。賢治の人生は宗教を抜きには考えられないと思うのだけれど、それを物語の中から脱色してしまったのは、作り手側の宗教に対する無理解や恐れからであろうか。賢治のなりふり構わぬ信仰には現代のオウム信者に近いものがあるのだが、この映画ではそうした賢治の行動に対して露骨な嫌悪感と拒絶反応を見せている。

 登場する賢治のエピソードの多くは松竹版とダブる物が多い。実在する人物を扱っているだけに、登場する人物も当然重なって来るのだが、その描き方には双方の作り手側の解釈が反映されている。松竹版で牧瀬里穂が演じた高瀬露を、この映画では斉藤由貴が演じているのだが、両者とも彼女を思い込んだら一直線の押しかけ女房型に描いているところを見ると、実際の高瀬露もかなりパワフルな人だったんでしょうね。思わず逃げ出してしまった賢治に、僕は突然同情してしまった。

 音楽教師の藤原や、農学校を退学させられる保坂も両映画で共通の人物だけど、東映版はこのふたりと賢治の友情をクローズアップするあまり、藤原と保坂を格好よく描きすぎじゃないかなぁ。「農業は音楽や文学と同じ芸術だ」という賢治たちの主張も、あまりに直接的に描かれすぎていて違和感があったぞ。こうしたスローガンって、もっと象徴的な物なんじゃないのかなぁ。農民でないまでも、農村の実情を知らないわけではない人間ならそれを文字どおり実行したりするもんだろうか。

 松竹版で仲代達矢が演じた賢治の父親を、東映版では渡哲也がノーギャラで熱演。共に理想的な父親像でありながら、その描き方に差があるのも面白い。


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