遠い雲

1996/09/28 並木座
東京から戻ってきた恋人の愛情に若い未亡人の心は揺れる。
木下恵介の昭和30年作品。by K. Hattori


 愛する恋人と別れ、意に添わぬ結婚を強いられた女。夫は彼女を愛することなく、彼女も夫を愛することはなかった。それでも子供は生まれる。彼女は傷つき苦しむが、夫は結婚後3年で死んでしまい、子持ちの未亡人となった女は娘との生活の中に安らぎを見出している。義父と義弟は良くしてくれ、義弟は義姉である彼女に好意を寄せているらしい。平和な生活。そこに、東京からかつての恋人が帰ってくる。彼はまだ彼女のことを愛していると言う。自分と一緒になってくれと言う。

 若い未亡人に高峰秀子。東京から帰ってきた恋人の田村高廣。二人が屋外で密会すると野村芳太郎の名作『張込み』になってしまう。田舎町で小さな幸せの中に自分を塗り込めるように生きている女という高峰のキャラクターも同じだし、そこに現れたかつての男に女が心を動かされるのも、家庭を捨てる決心をした女がすんでのところで踏みとどまるのも同じだ。製作されたのは『遠い雲』の方が数年早いので、『張込み』は『遠い雲』からキャストを借りてきたようにも思える。

 『張込み』は平凡な主婦になっていると思われた犯人の元愛人が、クライマックスで目をぎらぎらさせながら感情を爆発させるのが見どころで、この時の高峰の演技は鬼気迫るものがあった。『遠い雲』では高峰が田村に会うか会うまいか、娘の身支度をさせながら迷う場面以降の緊張感が素晴らしい。最後は彼女が高山の駅で東京行きの切符を買うところで、仕事から帰ってきた義弟とばったり出会うのがクライマックス。一度は決めたはずの心が、ここで再び大きく揺れる。

 家を捨て子供を捨て、人から後ろ指さされても恋人と生きよう、なくした幸せを取り戻そうと決心したはずなのに、そこで彼女の足がぱったりと止まってしまう。列車の発車時刻は近づく。恋人はその列車に乗っている。しかし彼は彼女が駅の改札口まで来ていることを知らない。彼は列車が動き出しホームを離れる瞬間まで、彼女が来てくれることを待っている。ハラハラドキドキ。優しい目で彼女を見つめる義弟。どうするどうする。彼女はどちらも自分からは選べない。列車がホームを出て行くまで、彼女は一歩も動けない。遠ざかって行く列車の車輪の音を背後に聞きながら、彼女はゆっくりと元どおりの日常に戻って行く。

 僕はどうも最後まで、田村高廣の側に感情移入できなかった。気持ちはわかるんだけど、応援する気には少しもなれないのだ。彼は彼女の気持ちなんて少しも考えていないんじゃないのか。自分が昔の恋人を忘れられないという、その一心で、彼女のささやかな生活をぶち壊す権利があるのだろうか。田村の妹も無責任すぎる。兄貴の気持ちを煽るだけ煽って、かつての恋人同士の生活に少なからず波風を立てたのは彼女の責任が大きい。

 並木座での上映プリントは、夜の橋の上を高峰と田村が歩きながら話す長いカットが途切れ途切れで、どうも具合が悪かった。また別の機会に見直したい映画だ。


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