東海道四谷怪談

1996/09/14 大井武蔵野館
格調高い演出が、原作の持つ悲劇性を情感たっぷりに描き出す。
中川信夫監督による昭和34年の新東宝作品。by K. Hattori


 格調高い正統派の「四谷怪談」。冒頭タイトル部でいきなり芝居小屋の幕が開く場面から始めたのは、この映画が「原作の忠実な映画化である」ことをアピールしているのだろう。物語のはじまりは冬の夜。田圃の脇にある塀沿いの一本道で、浪人民谷伊右衛門が許婚お岩の父四谷左門と同道の佐藤彦兵衛を惨殺。この場面はワイドスクリーンを横いっぱいに使って、長く続く屋敷の塀とその前に広がる田圃を捉え、人物の動きに合わせてゆっくりとカメラが移動する。横長の構図がいかにも舞台風で、タイトル部分からの連続性が計算されている。

 この映画では最初から伊右衛門がお岩の父を殺した仇であることが明示されており、お岩はそれを知らぬまま伊右衛門と夫婦になり彼の子を産む。これだけで充分岩にとっては悲劇的なのだが、そもそも伊右衛門が岩の父を斬ったのも、彼女との婚約を反故にされたことに端を発している。伊右衛門にとって、お岩が恋しい女房であったことは間違いない。しかし、貧しい生活の中で伊右衛門の心が岩から離れて行くことが、彼女の置かれた悲劇性を一層高める。伊右衛門も、自分が殺した男の娘と暮らしていることに、言い得ぬ息苦しさを感じていたのかもしれない。伊右衛門とお梅の恋とそれに続く岩の殺害は、こうした悲劇性の帰着点として、ある種の必然性さえ感じさせるものだ。

 伊右衛門の心変わりを薄々感じながら、それでも彼が時折見せる優しい言葉に望みを託す岩。その言葉が殺意をカモフラージュするためのものだとも知らず、自分の身体を気遣ってくれる夫伊右衛門の心遣いに感謝しながら、彼女は用意された劇薬を口にする。何も知らぬ岩にとっては、貧しい生活の中で見つけた、つかの間の幸せな時間だっただろう。幸福の絶頂からの転落こそが、悲劇をより強烈に印象づける。この映画でもそうである。

 やがて薬が全身に回り、苦しみのたうつ岩は一切の秘密を知る。その悔しさ、悲しさ、切なさ、恨めしさ。この部分の芝居演出はよく考えられているもので、岩の顔が醜く腫れ上がる描写も、櫛で髪を梳くとごっそり毛髪が抜けて血が流れる凄惨な場面も、残酷とか気味悪いというより、男に捨てられ死んで行く女の哀しみ一切を象徴しているように見える。彼女が蚊帳の中で眠る幼い我が子を手にかける場面なぞ、僕は岩に同情して思わず涙が出そうになったほど。愛する我が子を手にかけねばならぬほどの女の恨みとは、いかばかりのものであろうか。

 僕にとってこの『東海道四谷怪談』はお岩の死こそがクライマックスで、幽霊となった岩の復讐にはあまり面白味を感じない。僕は岩に感情移入するあまり、彼女が亡霊として登場するのを応援こそすれ、とても「恐い」とは感じないのだ。伊右衛門が呪い殺されるのは当然だと思っているから、最後が仇討ちで終わってしまうのは残念でならないほどだった。岩に詫びを言いながら死んで行く伊右衛門は、やはり最後に本当は岩を愛していたことに気がついたのかもしれない。それも悲劇だなぁ。


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