女地獄・森は濡れた

1996/09/01 大井武蔵野館
マルキル・ド・サドの原作を神代辰巳が脚色監督した異色作。
山谷初男が宿泊客を犯して殺す。by K. Hattori


 原作はマルキル・ド・サドの「新ジュスチーヌ」。脚本監督は神代辰巳。物語の舞台を大正時代(らしい)の山荘ホテルに移し、ホテル経営者である越中ふんどし姿の山谷初男が宿泊客を鞭打ち、陵辱し、殺戮しまくるという、かなりヘンテコな映画。

 世間から隔絶された山間のホテルという異空間が、社会の常識や道徳から獣たちの饗宴の場になっているわけだが、そこに極端に無垢で善良な女をひとり放り込むことで、その場が持つ異常性や猟奇性がより高まってしまう。「善良な女」が社会的には「女主人殺し」という不道徳な汚名をきているのに対し、「人殺し夫婦」は社会的に「資産家の紳士淑女」と見られている逆転現象。そうした一切合切をすべて混沌とさせてしまう壮絶なセックスと殺人の宴は、映画を見る観客を眩暈させずにいないだろう。輪姦・乱交・鞭打ち・肛門性交・大正琴・春歌。快楽と苦痛はすぐ隣り合わせ。そこでは性的な絶頂感と殺人が、すんなりと結びついてしまう。

 山谷初男の絶倫ぶりと、彼の徹底した悪の哲学は惚れ惚れするぐらい。悪の哲学というより、社会の道徳やモラルからの、意図的な逸脱と言った方がいいかもしれない。ホテルは社会から切り離された場所だが、そこでも善良な女は善良という美徳を失わないでいる。彼女自身は社会から「悪人」だと規定されているにも関わらずだ。結局善や悪は社会から強制される価値観ではなく、人間の本性に根差しているという意味だろう。ここでは人間の本性が善であるか悪であるかという問いかけなどなしに、むき出しの善と悪がぶつかり合っている。

 なにしろ映画の半分以上がセックス描写に費やされているのだから、それについて語ることなしにこの映画を語ることはできないだろう。妻やホテルで働く女奉公人たちの上に王様のように君臨し、彼女たちの生活すべてを支配する山谷初男。女たちは彼からの性的な要求に応え、与えられる苦痛を喜んで受ける。彼と彼女たちの関係は一見暴力的な支配にも見えるが、じつはそうではなく、密接なエロス的信頼関係によって結び付けられているのだ。苦痛が喜びであるこの家にあっては、暴力による支配など不要。主人と妻、主人と奉公人という従属関係は、奔放なセックスの場では完全な水平関係に変わり、逆に主人が女たちに奉仕しているようにも見える。女たちは男にセックスを求め、満たされ、充足し、光り輝く。

 しかしだ、なんだかんだ言ってやっぱり山谷初男の猛り狂いぶり、疲れを知らぬ底無しの絶倫ぶり、有無を言わさぬ雄々しさが素晴らしく滑稽である。普段は人のよさそうな、小声でぼそぼそしゃべる台詞に、少しお国訛りが混じっていそうな俳優・山谷初男。彼が潤んだ目で上ずった奇声と嬌声を発しながら、女を犯し、男を犯し、鞭打ち、自らも鞭打たれ、苦痛と快楽に身をよじり、顔を歪め、喘ぎ、悶え、歌いながら、舞いながら、自らの悪の論理を息つく暇もなく喋りに喋る。汗に光る裸体に唯一の衣装がひらひらの越中ふんどし。凄すぎる。


ホームページ
ホームページへ