ジキル&ハイド

1996/08/31 東劇
ジュリア・ロバーツ演じる女中の目から見た「ジキル博士とハイド氏」。
ジョン・マルコビッチの二重人格演技はメイク不用の迫力。by K. Hattori


 コッポラの『ドラキュラ』にはじまり、ケネス・ブラナーの『フランケンシュタイン』を経て、今度は『ジキル&ハイド』。古典的な怪奇小説を一流俳優とスタッフで文芸調に仕上げるという手法も、そろそろ飽きてきたなぁ。次は何だ。狼男かミイラ男か。

 映画の原作はスティーブンソンではなく、ジキル博士の屋敷で働く女中メアリーの目から事件を語る、ヴァレリー・マーティンの「メアリー・ライリー」をもとにしている。主人公メアリー役はジュリア・ロバーツ。映画の原題は原作通り「Mary Reilly」になっているが、邦題を『ジキル&ハイド』にしたのは見識。

 スティーブンソンの原作は一説によると過去70回映画化されているそうで、欧米人にとっては「忠臣蔵」みたいな古典なのですね。(70回というのは改作翻案も含めての数かもしれません。)物語の骨組みから人物配置まで、すべて観客の予備知識なり予断を当てにできる。この映画でも多分にそうした要素があって、その分、この映画でしか物語を知らない僕のような観客にはわかりにくい部分もあった。例えばグレン・クローズ演じるファラデー夫人の役割など、やっぱり説明不足だよね。メアリーが垣間見る陰惨な風景の向こう側にある惨劇を観客があらかじめ知っていないと、こうした描写の怖さが伝わってきにくい。

 言うまでもなく「ジキル博士とハイド氏」は二重人格をテーマにした古典的な小説。善良で温厚な紳士の内側から、粗野で野生的で狂暴な男の人格が現れるという筋立ては、当時はやりだした精神分析からインスパイアされたものでしょう。そういう意味では、ヒッチコックの『サイコ』なども「ジキルとハイド」の末裔と言える。

 ただし「ジキル博士とハイド氏」が他のサイコキラーものと一線を画しているのは、人格の変換が薬物によって、人為的に引き起こされるという部分。この秘薬なしにハイド氏出現はあり得ないという設定が、観客と危険な物語世界を隔てる防波堤の役を果たしている。だからこそ観客は危険な匂いのする、しかし安全な見世物として、この物語を楽しめるのです。『サイコ』のアンソニー・パーキンスは薬物なしで殺人鬼になれるんだから、観客にとってはその方がはるかに身近な問題だし、明日我が身に起こるかもしれない危険なんだよね。だから映画『サイコ』は観客にとって後味が悪いのだ。

 この新作『ジキル&ハイド』は、薬物の存在をあまり前面に出してこない点、ジキル博士とハイド氏の人格が正反対のものではなく、ジキル博士の中にハイド氏的な部分があり、ハイド氏の中にジキル博士的な部分が残っているという点でかなり今風の物語になっている。古典を換骨奪胎して、ごく普通の人間が持つ秘められた二面性というものをテーマにしているわけです。

 ジョン・マルコビッチが両方の人格を演じ分ける様子がこの映画の一番の見もので、それに比べればジュリア・ロバーツなど映画に花を添えるチョイ役にすぎない。


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