見知らぬ乗客

1996/03/31 銀座文化劇場
自分は相手を知らないのに相手は自分をよく知っているという不気味さ。
交換殺人というアイディアも面白い傑作スリラー。by K. Hattori


 殺人犯がなぜ捕まるか。それは殺された被害者の周辺に、殺人の動機を持った者がいないかをしらみつぶしに捜査するからである。逆に考えれば、動機のない殺人者は警察の網にかからない。そこで考え出されたのが交換殺人というアイディアだ。二人の人間が共謀して、互いに殺すべき相手を交換する。この場合共謀者同士の関係も希薄なことが望ましく、例えばたまたま乗り合わせた列車の中で偶然知り合ったばかりの関係などは理想的だ。

 交換殺人をテーマとしたこの映画はヒッチコックのサスペンス描写が秀逸で、観客を最後の最後までグイグイと引っ張って行く。プロットそのものにはかなり無理があるのだが、おそらくヒッチコックはそんなこと承知の上でこの映画を撮っているのでしょう。例えば主人公の行動はどれをとっても自分自身に降りかかった疑惑の解消にはならないのだが、それを無視してまで強引に物語をクライマックスに持って行く図々しさが素晴らしい。この映画のラストは主人公に有利な証拠だけが残されるように周到に組み立てられているが、話の筋だけを追えばご都合主義もいいところ。僕も含めて観客の多くはそれに気がついていながら、ヒッチコック演出の妙技に酔うのです。これはそういう映画です。

 与太話のつもりの交換殺人を相手が勝手に実行し、相手が自分にもう一件の殺人を強要しようとするのは確かに恐怖だけれど、この映画の場合主人公がわざわざ自分から自分を追いつめているのだからどうしようもない。この映画のラストシーンのような結末に向かうのはむしろ不可解で、途中でどうにでも逃げ道は用意されていたはず。例えば幾通もの手紙が届けられたり、地図や凶器のピストルが送りつけられた時点でそれらを警察に持ち込んでしまえば、それが動かぬ証拠になったのだ。このあたりはプロットを作る段階で、主人公の逃げ道を完全にふさいでおいてほしかったところだ。

 この物語のこわさは殺人をせまる脅迫者の存在より、むしろ「自分は相手のことを何も知らないのに、相手は自分のことを何から何まで知っている」というプライバシー剥奪の恐怖ではあるまいか。「あなたのことはよく存じ上げています」というのは、有名人にとってこの上もない賛辞だが、それってものすごく不気味なことなのかもしれません。

 この映画の中で一番感心した部分は、主人公が故郷の楽器店で働く妻と言い争いをする場面の、一片の無駄もない台詞の応酬です。列車の中の台詞でイヤな女だと予告されてはいたものの、観客の予測をはるかに超えた悪女ぶりにはびっくりしました。一連のシークエンスが終わった時点では、どちらが殺人を持ちかけても不思議じゃないと思ったほど。主人公は奥さんを殺してもらって儲けものでした。


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