座頭市

1996/01/15 文芸坐2
座頭市も年をとって枯れてきたが、それがかえって彼の凄みを増している。
'89年に製作された『座頭市』シリーズ最新作。by K. Hattori


 物語の展開上、樋口可南子演ずる女親分が登場する必然性はないのだが、これによって映画の導入部が華やかになるから、必然性はないが効果的ではあったのだろう。それでも湯船の中の濡れ場はやりすぎで、これは明らかに物語からの逸脱。監督兼主演俳優である勝新太郎は役得である。

 大映で製作されていたシリーズに比べると主人公の座頭市が歳をとった分、さらに世捨て人的、世間の裏街道的、いつでも死ねます的、世の中にゃ何の未練もござんせん的雰囲気が濃厚である。市にはもはや自分が積極的に世の中に参加して何事かをしようという欲がない。まぁこれは昔からそうだったんだけど、牢の中で世直しを説く若い男の話を無関心に聞き流す様子や、三木のり平演ずる古い友人を訪ねるエピソードから漂うのは、残りの人生をきれいに後かたづけしようとしているような印象すら受けるのだ。彼は何事にも執着しない。ただ、自分の残りの人生を自分の思うままに生きている男。それが新しい座頭市なのだ。

 そんな市の生き方にあこがれながら、同時に市を斬る役目をかってでる凄腕の用心棒が緒形拳。彼と座頭市の関係は、シリーズ第1作『座頭市物語』の平手御酒(天知茂)との対決を思い出させる。互いに相手をひとかどの人物と見極めながら、それでも刃を合わせるふたり。緒形拳が座頭市を斬る役目を受けながら、なかなか市を斬ることができないあたりは情感たっぷりで、結構見せてくれる。

 義理人情を重んずる古いタイプのやくざと、なりふり構わない新興のやくざが争ったあげく、新興やくざは役人まで抱き込んで露骨に相手を潰しにかかる……、というのは『座頭市あばれ凧』の粗筋。ま、これはこれで、やくざ映画の黄金率ですね。ところがこの新編『座頭市』では、敵対するやくざが共になりふり構わぬ成り上がりタイプだから堪らない。渡世のしがらみも義理人情もありゃしないのです。街道筋の宿場町は終始修羅場と化し、時折血煙が吹き出す。全編血みどろの大活劇。

 最初から最後まで一貫してチャンバラでは、後半になって観客が飽きてきそうなものだが、手をかえ品をかえ見せられる流血シーンはさながら殺陣の見本市。まったく飽きさせない。酒に酔った役人が見張りのやくざをなぶり殺しにする場面の残酷さ、緒形拳が切りつけてくる男の刀を天井まで跳ね飛ばすスピード感、出入りの最中に蟹江敬三が小便と血糊を同時に吹き出して死ぬ黒いユーモア、自分が逃れるため子分を手に掛ける内田裕也の非情。中でも素晴らしく壮絶なのは、座頭市が抱えた赤ん坊を頭上高く放り投げ、その間に敵を斬り倒して再び赤ん坊を受けとめる立ち回り。まさに芸術的な殺陣だろう。


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