三たびの海峡

1995/11/19 松竹セントラル3
日本の戦争責任や戦後保証、戦争中の朝鮮人差別などの問題を、
個人対個人の問題に矮小化してしまった。by K. Hattori



 第二次大戦中に日本が行った朝鮮人の強制連行を描いた良心的な作品。「日本は朝鮮に対して良いこともした」と言った政治家は、まずこの映画を観てみるといい。そんなことが恥ずかしくてとても言えなくなることは請け合いだ。しかし、この映画は良心的な映画という範囲を超えられていない。同じ監督が同じように良心的に作った『月光の夏』に比べると、どうも面白くないのだ。物語の構成はほとんど同じなのに、心の底から感情移入することができなかった。

 理由のひとつには、登場する朝鮮人たちを日本人の俳優が演じ、朝鮮人同士が日本語で会話をするという不自然さにもあるだろう。俳優たちが一所懸命に朝鮮人を演じようとすればするほど、逆に誇張された朝鮮人らしさのステレオタイプが鼻について、僕は物語から一歩引いてしまった。こんなもの単純に朝鮮人の役は朝鮮人の俳優に演じさせればいいのだが、日本人が作る映画だからなかなかそうも行くまい。出演者の中では、南野陽子の好演が光る。彼女は主人公の朝鮮人と恋仲になって彼の子供を生むという役柄だが、『東雲楼/女の乱』で僕を絶望的な気持ちにさせたのと同じ人物とは思えないほど充実した存在感を見せている。ちなみに彼女は日本人の役である。

 日本が朝鮮に行った蛮行を描くにしては、映画は個人の視点に偏り過ぎだと思う。これでは「日本が朝鮮に対して行ったこと」と「日本人が朝鮮人に対して行ったこと」との間にある連続性が見えてこない。言うまでもないが、日本人と日本はイコールではないし、朝鮮人と朝鮮はイコールではない。映画の中で、確かに日本人は朝鮮人に虐待の限りをつくす。しかし、そんな残虐な日本人の後ろ盾になっている当時の日本が見えてこないから、物語は最後まで三國連太郎と隆大介の個人的な対立という図式から広がって行かない。

 この映画も今年になって数多く封切られた「戦後50年記念映画」のひとつだが、どの映画にも共通しているのは、50年前の戦争と50年後の現在との間にある連続性を断ち切ってしまっている点だ。映画の製作者たちは年輩の方たちが多く、戦争と現在を結ぶ50年を自分たちの生きてきた経験で埋めることができるのかもしれない。でも、この映画を観た戦後生まれの世代に、それと同じことを期待するのは製作者としての甘えではないのか。日本が戦争中に行ってきたことが、どのように現在の平和な日本につながっているのか。その過程を描かずして、戦後50年もへったくれもない。物語の中で突然50年前に連れて行かれても、僕はただひたすら戸惑うだけなのだ。50年前の日本は、まるで遠い外国のように見えるだけだった。


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