写楽

1995/03/03 丸の内ピカデリー2
江戸時代の庶民のエネルギーが画面に活写されている。
葉月里緒菜にはあまり魅力がないけれども……。by K. Hattori


 天才浮世絵絵師・写楽の正体を探るミステリーではない。描かれているのは、江戸という時代に生きた人々のエネルギッシュな生命力とバイタリティー。絢爛と華開いた町人文化の粋と、それを支えた名もない人々の息づかいだ。ラストシーン。蔦重の葬列上でとんぼを切ってみせる主人公が印象的だった。

 元歌舞伎の下回り役者、舞台で怪我をして大道芸人になるのが、真田広之演じる〈とんぼ〉だ。彼が恋心をいだく吉原の花魁が、葉月里緒菜演ずる〈花里〉。とんぼは仮の名だが、彼につけられた〈写楽〉という雅号もまた仮の名。彼の本当の名は、ついに映画の中に登場しない。それは花里も同様だ。手に手を取って逃げるさなか、花里がとんぼに本当の名をたずねるシーンは哀れだが、そこでもとんぼは口をつぐんだままだった。互いに名も知らぬ者同士が惹かれあい、離ればなれになるこのシーンは、とても切ない。風俗描写に傾きっぱなしのこの映画の中では、もっともドラマチックな一瞬だ。

 とにかく全編これでもかという細部の描写。いかにして画面の中に江戸時代を再現するかに血道を上げている映画だ。しかし、一方ですごくモダンな感覚が按配されてもいる。音楽の武満徹、美術の浅葉克己、衣装の朝倉摂などのスタッフが、その原因かもしれない。当代一流のグラフィック・デザイナーを美術にすえる感覚ってのは、なかなかのもの。絵描きが主人公のこの映画には合っている。舞台美術家として有名な朝倉摂を、美術ではなくあえて衣装担当にするのもいいね。撮影所のお仕着せでない新鮮さが、登場人物達を生き生きさせていると思う。

 セットやロケも、近年の時代劇には珍しい豪華さだった。でも、企画総指揮がフランキー堺で、いつか写楽を撮ろうと言い交わした川島雄三監督との約束を果たした映画云々と言うことになると、ちょっと物足りなさも残る。川島とフランキーの『幕末太陽伝』のスケールに比べると、この映画はちょっとせせこましいんだ。物語がものすごく狭い範囲に限定されていて、そこから一歩も広がって行かない。品川の遊郭に場所を限定した『幕末太陽伝』の方が、はるかに奥行きや広がりを感じたのはなぜだろう。『写楽』の中に登場する江戸の街は、まるで薄っぺらにしか見えない。マット画や合成処理で江戸の街並みを再現しているのだが、ひょっとしたら、全てを見せてしまったことで、かえってそこに映らなかった物に気配りが足らなかったのかもしれない。

 風俗描写はともかくとして、人間のドラマとしては、いささか深みに欠ける映画だ。蔦屋重三郎の写楽に対する思いや、歌麿の嫉妬や羨望、十返舎一九の野心など、一通り描かれてはいるが、そこにあるはずのドロドロした感情の渦のようなものは描かれていない。そのあたりがちょっと残念だ。


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