フランケンシュタイン

1995/02/19 日比谷スカラ座
デ・ニーロがモンスターを演じる原作に忠実な映画化作品。
格調は高いのだが、その分怖さは薄れる。by K. Hattori


 古典的怪奇小説「ドラキュラ」を豪華なメロドラマにしてしまったコッポラが製作総指揮をとり、シェイクスピアものの映画を何本か撮ったこともあるケネス・ブラナーが監督したとなれば、これまた古典的怪奇小説である「フランケンシュタイン」がシェイクスピアばりの古風な悲劇になるのは目に見えているわけで、この仕上がりは製作者も監督自身も予想していたことだと思う。おそらく映画の作り手側は、この出来映えに大満足していることだろう。

 危惧があったとすれば、それは怪物を演じる役者が大物ロバート・デ・ニーロだったという点。『ケープ・フィア』ばりの力んだ演技で怪物をやられれば確かに誰もが震え上がるような熱演になるだろうが、それではこの映画の持ち味は壊れてしまう。しかし、この映画のデ・ニーロは抑制された演技で悲劇の主人公である怪物を演じ、この映画の中にしっとりとした冷たい哀しみを出すことに成功している。さすがである。名演である。パチパチ。

 怪奇小説としか思われていなかった原作から、古典悲劇的な要素を抽出した脚本は見事。野心的な青年医師フランケンシュタインが作り出した怪物は、彼の分身であり、彼の子どもである。望まれなかった子どもの悲劇。父親は子を捨てて逃げ去り、残された子は世間の荒波にもまれながら、父との再会、そして復讐を心に誓う。

 青年フランケンシュタインが自ら作り出した怪物を放り捨てた理由は、彼が作り出したものに対して愛情を持てなかったから。それが神の摂理に反したからでもないし、作り出したものがみにくかったからでもない。そんなものは言い訳だ。その証拠に、よみがえらせた妻に対して、彼は愛情さえ抱くではないか。なぜそれと同じ愛情を、怪物に向けられなかったのか。自らの野心や欲望のままに、思いがけない結果が生まれたとき、その結果に狼狽し、あげく悪態をつき、責任を逃れようとする姿はみっともないぞ。あまりにも怪物が気の毒。フランケンシュタイン、お前はデーモン小暮か!

 コッポラが監督した『ドラキュラ』に比べると『フランケンシュタイン』はツヤツヤした映像的けれん味に乏しいが、これはブラナーの意図であり、また、コッポラの意図でしょう。フランケンシュタインの作り出した怪物は、超自然的な存在ではなく、あくまでも日常の延長にある存在なんだ。これは脚本の力だね。そのまま舞台劇になりそうな脚本だから、ブラナー演出の舞台版『フランケンシュタイン』というのも観てみたいぞ。

 セットや雰囲気が『アマデウス』に似ていると思ったら、なんと、フランケンシュタインの友人医師役で登場しているのは、アマデウス・モーツァルトことトム・ハルス君ではないか。おひさしぶり。


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