棒の哀しみ

1994/10/21
奥田瑛二が棒っきれのように生きるやくざを演じてキネ旬主演男優賞受賞。
神代辰巳監督の遺作になった映画。鬼気迫る傑作。by K. Hattori


 ヤクザはカタギと一線を画する者と思われているが、この映画を見ると、なに、ヤクザもカタギも変わらないことがわかる。特にカタギの代表であるところのサラリーマンと、ヤクザはよく似ているらしい。両者を同一人物だと言っては「静かなるドン」になってしまうが、両者は双子の兄弟のようにうりふたつである。嘘だと思ったらこの映画を観てみるがいい。奥田瑛二扮する中年ヤクザのメンタリティは、同世代のサラリーマンそのものではないか。劇中奥田が「電機メーカーの課長さん」と言われるのも無理はない。

 若い頃から一心不乱に働いて、ゆくゆくは本社の重役ポストが待っているのかと思いきや、突然上司に下請け会社への出向を命じられたサラリーマン。名目は社長だが下請けは下請け。自分の好き勝手に会社を経営できるわけでもないし、本社からはきびしいノルマの催促がある。自分が出世コースから外れたことで、後輩社員が本社でいい地位を得ていることも気にくわない。こうした処遇にふてくされているのは、奥田演ずる主人公の田中も同じだ。

 人間には等しく職業選択の自由があるというがそれは嘘で、人間は持って生まれた生き方以外できないものだ。ヤクザはヤクザとして生きるしかなく、サラリーマンはサラリーマンとして生きるしかない。中には自分本来の生き方から外れた人生を歩むものもあろうが、その時は自分自身に折り合いをつけながら、周囲の状況に合わせて生活することを強いられる。一度決まった枠から己の才覚ひとつで飛び出すのは、まさに至難の技なのだ。

 心ならずもヤクザとして一家を構えている田中は、それが自分本来の生き方ではないと心得ている。ヤクザとしての才覚は人一倍ある。腕っ節も立つし、頭も切れる。子分にも慕われている。だが、自分がいきる世界はそこではないような気がする。若いチンピラヤクザだった頃には、それでもなんとか自分と周囲の折り合いをつけられた。だが最近それが息苦しく感じられる。彼は自分自身から逃れようとするかのように、ぶつぶつと独り言をつぶやき続ける。

 ていねいな日常描写と芝居の積み重ねが、それぞれの登場人物を鮮明に浮き上がらせている。東映ヤクザ映画にでてくる講談調の人物ではなく、自分たちの隣にいる等身大の人間がそこにはいる。リアルな性描写からはキャラクターの人間性が匂い立つようで、全然エロチックではないが印象に残った。主人公が思わぬところで繕い物の腕を披露するシーンは、特殊効果だとわかっていてもじつに痛そうで、観ている観客の顔が演ずる奥田と同様に激しく歪むこと請け合いである。

 描かれているのは犯罪や暴力、ヤクザ組織の跡目争い。それが事件ではなく、日常として描かれているのが面白い。ヤクザ映画にありがちな情緒に流れることなく、人間を見つめた傑作といえるだろう。


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