東雲楼・女の乱

1994/10/04
芸者と娼妓を混同した上での女同士の諍いにはぜんぜん興味が湧かない。
セットの豪華さはさすが東映だがそれだけの映画。by K. Hattori


 明治時代、九州の遊郭を舞台にした女の半生。5歳で遊郭に売られた少女が、店を構えた先輩の女に引き上げられてお茶子頭になる。店の名は東雲楼(しののめろう)。先輩の女主人は、情夫である相場師のために店を担保に高利貸しから10万円を借金。東雲楼を手に入れたい高利貸しは、相場に先手を打って相場師を破産させ、まんまと東雲楼を手に入れる。相場師は自殺し、遊郭の女主人も後を追って自殺。主人公の女は恋人と二人でこの高利貸しを殺して逃亡し、東雲楼は残された高利貸しの情婦が後を引き継ぐ。そんな話だ。

 話がつまらない。主人公の女をことさら不幸にしようとする話の展開には、うんざりしっぱなしだった。遊郭を舞台にする意味が全くない話の運び。人物の出し入れも、話の流れも全く唐突。2時間の映画だが、4時間の映画を無理矢理半分にしたような、つなぎの粗さが気になる。やたら汗ばみ、だらしなく身体をくねらせ、むやみに目を見開いて、大げさな台詞をしゃべる登場人物たち。役者が全員大根ぞろい。脚本もデタラメで、高利貸しが刺客に襲われるが、これが話の筋に全く関係ないのにも驚く。

 風俗考証に再検討の余地がありはしないか。芸者と遊女の区別もつかぬいい加減さには、暗澹たる気分になった。この時点でこの映画の馬鹿さ加減がわかろうというものだ。遊郭のシステムは不可解な点があり、店には牛太郎もいなければ箱屋の男もいない。客とトラブルがあったとき、これでは困るだろう。映画では娼妓との無理心中を図ろうとする男に向かって女主人がたんかを切るシーンがあったが、遊郭は酔客相手の商売だからトラブルは日常茶飯事のはず。いちいち女主人が出向くのは疑問だ。働く女たちがやたら借金借金と言うのも白々しい。芸妓娼妓の借金が減らないのは、着物その他に金をかけるせいだろう。高利貸しに店を乗っ取られると知った女たちが、無様に泣き叫ぶのも不思議。経営者とそりが合わなければ、住み替えして他の店に移ればよいではないか。それによって借金は増えるが、住み替えは当時ざらにあったことだ。

 キャスティングミスも目立つが、最悪なのは南野陽子。怪しげな大阪弁には目をつぶるとしても、あの無様な振る舞いはなにか。それ者(シャ)上がりで、高利貸しの情婦という役どころだが、とても前身が芸者とは思えないしつけの悪さ。立ち姿も座り姿もひたすらだらしなくずっこけていて、あれでは芸者ではなく場末の三流淫売である。このあたりにも芸者と女郎の区別がない制作者の、ずさんな演出態度が見えかくれしている。

 明治時代の女郎が人々からどう見られていたかは、樋口一葉などを読めばわかりそうなもの。ことさら汚らしく浅ましく哀れではかない存在に描くのは、事実から外れはしないか。山本夏彦の「最後のひと」でも読んで、勉強し直してほしいものだ。


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