シンドラーのリスト

1994/03/28
人類史上最大の狂気と悲劇。その中に奇跡のように光り輝く人間性の尊さ。
ユダヤ人スピルバーグが描くホロコーストの神話。by K. Hattori


 アカデミー最優秀作品賞、監督賞を獲得した大作。この映画については賛辞以外の批評を拒むような空気さえ感じてしまうのだが、僕はへそ曲がりなのであえて書く。

 映画の中心になる人物は3人いる。タイトルにもなっているドイツ人工場主オスカー・シンドラー、彼を助けるユダヤ人会計士イツァーク・シュテルン、そしてクラクフの強制収容所長アーモン・ゲート。問題はオスカー・シンドラーの描き方にある。映画の中のシンドラーは最初から最後まで正体不明で、何を考えているのかさっぱりわからない。資本主義の権化のような彼が、どこからユダヤ人に肩入れし、ドイツの戦争にまで反対する人道主義者に変化したのか。スピルバーグはそれを描くことなく、この物語を進めて行く。

 言うまでもなく、シンドラーは最初からユダヤ人を助けるために工場を作ったわけではない。ひとりの工場経営者として、ユダヤ人の人件費の安さに目をつけたに過ぎないのだ。彼のユダヤ人に対する態度は「よき経営者」としてのそれでしかなく、特別彼が反差別を主張するわけでもないし、ユダヤ人を優遇したわけでもない。もちろん、反ユダヤ主義があたりまえだったあの時代に、そうではない、ごくあたりまえの経営者と労働者という関係を維持し続けた態度は注目すべきだが、だからと言って彼が特別すごいことをしたかといえばそうではないだろう。

 映画前半部のこうしたシンドラー像は実に見事に描かれていたと思う。ほとんど無一文で町にやってきた男が、持ち前の社交性とハッタリでドイツ人将校やユダヤ人を向こうに回した大立ち回り。やがて彼はまんまと一財産を築く。一種のサクセス・ストーリーと言えなくもない。しかし、問題はそのあと。彼はいつ実業家からユダヤ人の救世主に心変わりしたんだろう。それが描かれていないため、リーアム・ニーソンの熱演もなんだか空回りしているような気がした。脱出直前、涙ながらに「この車を売れば、このバッチを売れば」と過去を悔いるシンドラー。最高の盛り上がりを見せるはずのあの場面で、僕はなにか白々しいものを感じた。このシーンの台詞はそれに対応する実際の場面、例えば車の処分についてのエピソードや、ゲートがバッチをねだるシーンなどがないため、台詞だけが浮いている。

 収容所から無事ユダヤ人たちを脱出させ、チェコスロバキアの工場に移動したシンドラーが、作業を徹底的にサボタージュする理由もよくわからない。彼は「ドイツ軍に協力したくない」という理由で自分の工場の生産を事実上ストップさせてしまうのだが、この結果、彼の手持ちの資金はあっという間に底をつく。資金が底をつけばどうなるか。工場は閉鎖され、せっかく助けだしたユダヤ人たちは元の収容所生活に戻される。その先は死だ。映画では資金が底を打ったと同時にドイツが降伏し、ユダヤ人たちは間一髪収容所への逆戻りを免れるのだが、それは結果論。ドイツがあと数カ月ねばっていたら、工場にいるユダヤ人たちの運命はまた違ったものになっていたはずだ。それを知らないシンドラーとも思えないのだが。

 この映画は実話を描いているだけに「こんなことあるわけがない」とか「ここでこの台詞はないだろう」という反論を許さない。脱出直前のシンドラーの男泣きはあったことなのかもしれないし、工場のサボタージュもまた同様。だから僕はこうした描写自体に文句は言わない。だがこうした描写に行き着くまでの物語の組み立てを、スピルバーグは疎かにしてはいないか。「真実の重み」という伝家の宝刀に、いささか頼り切ってはいないか。オスカー・シンドラーというひとりの男の生き方を、誰にも納得がいく力強さで描いていたと言えるだろうか。少なくとも僕には納得ができなかったのだが……。

 主人公シンドラーのこうした曖昧さに比べると、ユダヤ人会計士シュテルンや収容所長アーモン・ゲートの描写は実に明確。観客の多くは、シュテルンやゲートにより親近感を覚えるはずだ。僕が思うに、結局スピルバーグはシンドラーという摩訶不思議な人物をつかみ切れなかったのだと思う。監督は明らかに、シュテルンやゲートに感情移入しているようだ。物語をリードするのは常にシュテルンだし、ゲートの人物造形も実に念入りで細心の注意をはらっている。映画の中から人物が立体的に浮かび上がってくるのだ。シンドラーの平板な印象に比べるとこれは大違い。天と地ほどの開きがある。誰もが納得できる力強い人物表現がそこには見られるはずだ。スピルバーグには人間が描けないというまことしやかな悪評は、この二人の人物を描き切ったことで粉砕されたと僕は思う。少なくともそこそこの演出はできることが、これで証明されたはずだ。

 物語の題材といいスケールといい、この映画がアカデミー賞で作品賞に選ばれたことには異論がない。この映画はホロコーストを描いた映画の、ひとつの頂点になったと思う。しかしスピルバーグはこの映画の中で、いった何をしていたのか。噂のパートカラーにしても、使い方が陳腐。すごいと思ったのは、ゲットーを追いやられたユダヤ人たちの荷物を兵士たちが路地に放り出すシーンや、子供たちをのせたトラックを母親たちが追いかけるシーン、それにアウシュビッツに列車が到着するシーンくらい。主人公の描写のお粗末さは決定的だし、演出にもこれといった目新らしさは感じられなかった。何よりスピルバーグの映画が常に持っていた、映画的な快感が欠けている。前記したほんのわずかなシーン以外に、スクリーンを見ながらどきどきするような快楽を得たシーンがほとんどないのだ。スピルバーグは「ドキュメンタリー風モノクロ映像」という手法にこだわりすぎて、これが映画であることを忘れてしまったのではないか。カメラの視線があまりにも単調で、メリハリがまったくない。これではドラマもサスペンスも盛り上がらない。なんとも、スピルバーグらしからぬ映画だった。


ホームページ
ホームページへ