1492・コロンブス

1993/02/13
リドリー・スコット流のコロンブスは英雄になり損ねた敗残者。
重苦しいイメージはラストシーンで感動に変わる。by K. Hattori



 僕が思うに、この映画でリドリー・スコットが描いているのは「純粋なるものが周囲の思惑によって汚されてゆく過程」です。未知の海への船出という大冒険は新航路の発見と莫大な富の約束という欲望のもとに歪められ、英雄コロンブスは不遇のうちに生涯を終え、真に自由だったアメリカ(と、あの場所が言えるかどうかは疑問ですが)の原住民はヨーロッパ人に侵略されて奴隷になる。こうしたドラマを生み出した時代と人々を、あの映画は生き生きと描き出していたと思う。そしてそのドラマの中心が、ド・パルデュー演じるコロンブスだったのです。

 秘境探検物として観るとちょっと食い足りないでしょうね、たしかに。「さあ、これからドカーンと行ってみよ〜」とド・パルデューが巨体を揺すって押し出してきた割には、出港間際になってそわそわしだし、挙句にはどんどん尻すぼみになってしまう。嵐のシーンなども、ただ主人公を不幸のどん底に落とし込むものでしかない。嵐という画面の高揚を背景にして、主人公の立場はどんどん低迷していく対位法。アンチクライマックスもここに極まれり、ですね。

 『フィツカラルド』で主人公の船が激流を揉まれながら下ってゆくシーンも同じようなシェチェーションだったけど、『1492・コロンブス』には『フィツカラルド』ラストの船上オペラに対応するシーンがない。(観客が最後にニヤリと笑えないのさ。たとえそれが苦笑いだとしてもね。)また『フィツカラルド』の場合、主人公が成功を確信するシーンから、急転直下すべてを失う激流下りに結び付けるあたりにドラマがあったわけですが、『1492・コロンブス』は小さな挫折が積み重なった、最後の駄目押しの大嵐ですよね。

 でもさ、最初にも書いたようにこの映画は「純粋なるものが周囲の思惑によって汚されてゆく過程」を描く映画だから、ダラダラなし崩しの悲劇に向かう物語にもそれなりの意味はあるんです。あそこまで物語を盛り下げたからこそ、ラストのコロンブスの回想シーンで霧の切れ目からジャングルが顔をのぞかせたとき、鳥肌が立つような高揚感があるんだと思います。あのラストシーンこそが、この映画の全てです。



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