不惑のアダージョ

2011/09/30 京橋テアトル試写室
40歳で更年期を迎えた修道女の戸惑いと不安。
男でも共感するところの多い作品。by K. Hattori

Fuwaku  40歳のことを「不惑」と呼ぶ。論語によれば、孔子は15歳で学を志し(志学)、30歳で独り立ちし(而立)、40歳で惑うことがなくなり(不惑)、60歳で何事も素直に聞き従うことができるようになり(耳順)、70歳になると思うがままに振る舞っても羽目をはずすことがなくなった(従心)のだという。まあこれは聖人である孔子様なればこそのことであって、小人たる我々はなかなか「四十にして惑わず」とは言えないものだ。僕は40代半ばになったが、惑うことはまだまだ多い。自分の歩んできた道も、四十になれば半ば他人事のような冷静さで振り返ることができる。はたしてこの人生が、良かったものなのかどうかと、悔いても仕方のないことで思い悩んだりしないわけでもない。一方これから先の人生も、視界の向こうに何となく終わりが見えてきている。二十歳の頃はもちろん、三十の時にもまだまるでぴんと来ていなかった「老い」という現実が、ほんのすぐ先までやって来ているのが実感できる。それは肉体的な衰えとしても、否応なしに自分に突きつけられる事柄だ。例えば細かい文字が読みにくい。老眼の兆候が現れてきているのだ。はてさてこれから先の人生を、自分はいかに生きるべきであろうか……。

 映画の主人公は40歳の修道女だ。彼女は40歳という若さで、早くも更年期を迎えている。修道女という設定はかなり特殊だし、40歳で更年期というのも平均に比べれば随分と早いと言えるかもしれない。しかしこの映画はこの設定によって、観る人の共感を得られるものになっていると思う。修道女には神に献げた匿名の「シスター」としての生活はあっても、個人のプライベートな生活情報というものがない。この映画はそれを上手く利用して、このヒロインを誰でもない人間、逆に言えば、誰にでもなり得る人間として造形している。彼女は独立した個人としての生活があり、同時に教会組織の中の人間であり、教会で与えられた仕事をこなす人間でもある。映画の中ではこうした彼女の属性の記号性が全面に押し出され、彼女のプライベートな生活は後退している。

 ヒロインが突然やってきた更年期に戸惑い右往左往するというのも、僕はかなりの実感を持って観ることができた。女性の更年期の辛さなんてものは、僕にはわかりようがない。しかし身体の衰えや肉体的な変化、老いの兆候というのは、たぶん誰にとってもある日突然、「え? まだまだ先だと思っていたのに!」というタイミングでやって来るものに違いないのだ。(僕も細かい文字が読みにくいことに、ある日突然気づいた。それまでは目が疲れているのだと思ってました。)目の前に突きつけられた現実を前に、しばしそれを疑ったり、拒絶してじたばたしてみせたりすることは、誰にでもあることだろう。そのドタバタが、淡々と描かれているところにこの映画のよさがあると思う。

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11月26日公開予定 ユーロスペース
配給:ゴー・シネマ
2009年|1時間10分|日本|カラー|HD
関連ホームページ:http://www.gocinema.jp/autumnadagio/
関連ホームページ:The Internet Movie Database (IMDb)
DVD:不惑のアダージョ
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