抱きたいカンケイ

2011/03/10 パラマウント試写室
かわいい女医さんとヤリ友になれればこの世は幸せか?
ややパンチ不足のラブストーリー。by K. Hattori

Dakitaikankei  脚本家を目指しながらテレビドラマの制作現場で働いているアダムは、元カノが自分の父親と交際していることを知って大ショック。飲んで、暴れて、泣き叫んで、朝目が覚めたときには、一糸まとわぬ姿で見知らない部屋のソファーの上だった。部屋は病院勤めの若い医師たちが共同でシェアしている家。どうやら昨夜は、以前から顔なじみの女性医師エマを訪ねて来たらしい。アダムとエマはそのまま朝からベッドで合体。新しい彼女ができてすっかり舞い上がる浮き沈みの激しいアダムだったが、エマは自分には彼氏はいらないという。でもセックスだけの割り切ったカンケイなら、というエマの提案に、一も二もなく飛びつくアダム。だがこの割り切ったカンケイというのは、そう簡単に割り切れるものではなかった……。

 最初にセックスありきで、恋愛はその次という、昔からよくあるパターンの恋愛映画。こういう映画では最後に「やっぱり彼(彼女)のことを愛してる!」ということになるのは決まっているわけで、あとはどこまでその「気づき」のタイミングを遅らせることができるかが物語のポイント。できれば観客に「このふたりはやはり合わないから別れてしまった方がいい」と思わせるぐらいにして、先行きが読めなくするのも大事なことだ。ところがこの映画、そうした点がだいぶ弱い。

 主演のナタリー・ポートマンとアシュトン・カッチャーは、登場したときから「はい、このふたりでカップル決定!」という組み合わせで、周辺にこの関係を脅かすライバルや余計な助言者が皆無というのが物足りない。例えばポートマンの同僚の若い医者が、形式的に出てくるだけのつまらない恋敵になっている。カッチャーの世話を焼く女性プロデューサーを、わざわざ性的な魅力の薄い女性に仕立てている。これではちっとも、ハラハラドキドキしないのだ。麻雀に例えるなら、これは配牌即ダブリーで、あとは7巡も8巡もずっとツモ切りしているようなもの。駆け引きもスリルも何もない。わざわざこうして恋敵の目を潰してしまうのは、たぶん主人公たちの結びつきに観客の納得できる必然や説得力がなかったからだろう。観客の誰もが彼らの関係に納得しているのに、主人公たちだけがそれに気づいていない状況を作れれば、こういう物語はうまく転がっていく。(これは『恋人たちの予感』などでも使われている恋愛映画の黄金律だ。)しかしこの映画では、何がどうして主人公たちがくっついてしまったのかよくわからない。

 アイヴァン・ライトマンの映画は久しぶりに観た気がするが、演出家としての手練手管は見えても、バカバカしい話を強引に成立させてしまう馬力は衰えたのかもしれない。僕はライトマンの『デーヴ』が好きなので、ケヴィン・クラインが主人公の父親役で出演しているのに大喜び。この映画で一番よかったのは、彼がピアノ弾き語りで歌うシーンだったかも。

(原題:No Strings Attached)

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4月22日公開予定 新宿バルト9、丸の内TOEIほか
配給:パラマント ピクチャーズ ジャパン
宣伝:ブレイントラスト WEB & モバイル宣伝:スターキャスト・ジャパン
2011年|1時間48分|アメリカ|カラー|シネマスコープ|DTS、SRD、SDDS、SR
関連ホームページ:http://www.dakitai-kankei.jp/
関連ホームページ:The Internet Movie Database (IMDb)
DVD:抱きたいカンケイ
サントラCD:No Strings Attached
関連DVD:アイヴァン・ライトマン監督
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