「愛の宗教」と言われるキリスト教において、「隣人愛」の源泉は人間ひとりひとりが持つ自己愛にある。イエスは『隣人を自分のように愛しなさい』と教えている。誰でも自分自身を愛している。それと同じように、自分を愛するのと同じぐらい熱心に、隣人を愛しなさいと聖書は教えている。しかし僕はここで疑問に思うのだ。これは自分自身を愛せない人は、他人を愛せないという意味ではないか。自分自身が嫌いな人、自分自身を憎んでいる人は、他人を愛することが許されないということではないか。もちろん「私は自分が嫌いだ」と言う人だって、本当は自分のことが好きなのだ。「自分で自分が許せない」などと言う人に限って、真っ先に自分を許している。自己嫌悪や自己憐憫は、多くの場合、心理的な自己防衛に過ぎない。守るべき愛する自己を、人は捨てられない。ほとんどの場合はそうだ。
しかしこの映画の主人公サム・ケイヒルは、戦争で受けた心の傷によって、本当の意味で「自分自身を愛せない」状況になっている。戦争に行く前、彼は妻にとって理想の夫であり、まだ幼い娘たちにとっても理想の父親だった。彼は家族を愛し、家族から愛され、仲間たちに慕われ、信頼され、同時にその愛や信頼に応えられる意思と行動力と自信を持つ男だった。しかし戦場で敵の捕虜になったサムは、自分自身を徹底的に否定せざるを得ない状況に追い込まれる。生き延びて故郷に帰るために、生きて家族や愛する人たちと再会するために、彼は自分自身が決して許すことの出来ない人間に成り下がってしまう。戦場から生還した彼は、もはや、かつてのサム・ケイヒルではない。彼はもう自分を愛せない。彼は誰の愛にも値しない人間になったのだ。家族や友人たちは、彼の生還を喜んでいる。誰もが彼に愛の眼差しを向ける。しかしそれが彼には苦痛なのだ。なぜなら彼はもう、その愛に応えることができないから。サム・ケイヒルは生きているが、それと引き替えに彼の心は死んでしまった。
この映画の凄味は、こうした状況に置かれた主人公にわかりやすい「救い」を与えないことだ。ここで雲の切れ目から「息子よ、あなたの罪は赦された」という神の声でも聞こえてくれば話は簡単なのだが、あいにくここにそうした解決はない。神の代理人として主人公に赦しを与える何者も存在しない。人は自分自身の犯した罪の前に恐れおののき、罪の大きさと重さに押しつぶされてしまうしかない。それが現代社会なのだ。
映画の最後にサムは家族から「愛される」ことで、少しずつ自分を取り戻していけるのではないかという希望が見えなくもない。人は自分を愛するように他人を愛すると同時に、他人に愛されることで自分自身を愛するようにもなれる者なのかもしれない。しかしその愛の、なんと無力に見えることか。サムが完全に癒されることは、今後二度とないだろう。
(原題:Brothers)
DVD:マイ・ブラザー
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