父親のレストランを手伝いながら、いつか投資で一発当てて世の中の勝ち組になることを夢見ている兄イアン。自動車整備場の仕事をしながら、恋人と暮らす平和な日常と、酒とギャンブルをこよなく愛す弟テリー。イアンは舞台女優のアンジェラと知り合い、自分は投資家として成功している金持ちだとウソをつく。彼女との関係にのめり込んでいくイアンは、すぐにでも金を手に入れて本当の金持ちにならねばならない。一方テリーはポーカーで大負けし、莫大な借金を背負い込む。金に窮した兄弟が頼れるのは、アメリカで事業に成功した伯父ハワードしかいない。ハワードは兄弟の頼みを二つ返事で引き受ける。「私たちは家族だ。家族は困ったときは助け合わねばならん。だがお前たちも私の家族として、ひとつ頼みを聞いてほしい。それが家族としての義務だろう?」。だがハワードの頼みとは、ひとりの男を殺すことだった……。
平凡な男たちが小さな幸せを求めながら、道に外れて破滅して行く物語。こういう話は昔から映画の世界でも山ほど取り上げられていて、今さらそれでどうこうという新鮮味のある話じゃない。「悪銭身につかず」とか、「身から出た錆」とか、「自業自得」とか、要するにその手の道徳的な訓話みたいなものなのだ。映画を物語を語るための手段だと考えるのなら、この映画は語り尽くされた物語を再度語った手垢のついたシロモノであって、今さらこんなものを観る必要もないし、そもそも作る必要だってなかったということになる。でも映画には語られている物語を楽しむ以上に、物語の語り口を楽しむという側面がある。これは古典落語の名人芸みたいなもの。話のスジは同じで、途中のギャグから最後のオチまで全部同じでも、前座やふたつ目の語る落語と名人真打ちの語る落語は面白さがまるで違う。それこそが「語りの芸」というものだ。客は話そのものを十分に熟知した上で、その中に散りばめられている名人の芸を楽しむ。本作は監督がウディ・アレン。やはりそこにあるのは、熟練した監督だけが作り出せる名人芸としか言いようのないものだ。
例えばこの映画における省略のテクニック。物語の中には話の節目となる決定的なポイントというのが幾つかあるのだが、この映画ではそれを省略して観客の目から奪い取ってしまう。観客を大いに期待させた後に、それをひょいとはぐらかすのだ。これが何度も何度も繰り返されるのだが、そのはぐらかしのタイミングがまさに絶妙。期待させてははぐらかし、観客を常に「次の期待」に向かわせるのだ。これは失敗すると観客の欲求不満だけが募ってイライラしてしまうのだが、この映画では繰り返されるはぐらかしがユーモアになっているように思う。これぞウディ・アレンの持ち味。
しかしこの映画、物語自体は陰々滅々たる悲劇。音楽も沈痛なフィリップ・グラスで、映画を最初から最後まで観ていても笑えるところは一切ない。
(原題:Cassandra's Dream)