ボリビア南方の地区にて

2009/10/13 映画美学校第1試写室
ラパスの高級住宅街で暮らす一家の没落を描く。
第22回東京国際映画祭コンペ作品。by K. Hattori

Boribia  ボリビアの首都ラパスはすり鉢状の地形になっている。その底部が町の中心街であり高所得者向けの住宅地。周辺の高台には低所得者が暮らしている。映画のタイトルになっている『ボリビア南方』というのは、ラパスの南方にある高級住宅街という意味。そこに母子4人で暮らす上流階級の一家が、華やかな暮らしぶりから一転没落し、住み慣れた屋敷を手放すに至るまでを描く。

 映画は一家に起きている経済的な転落を、生活描写を通して間接的に描いていく。彼らがなぜ豊かな生活を享受できていたのか、その生活がなぜ崩壊してしまったのか、その理由は説明されていない。おそらくそれは、この家の外にある社会的な事情が関係しているのだろう。だが映画はそれを、くどくどと説明しない。この映画の中では、一家の暮らす屋敷の中だけが全宇宙なのだ。原則としてカメラはこの屋敷から出て行かない。登場人物たちもこの屋敷から一歩も出ない。実際にはこの屋敷の外の世界もあるわけだが、映画に描かれているのはこの屋敷の敷地内だけ。そこだけがこの映画の物語世界であり、人々も事件もその世界の外からやって来て、外に向かって去っていく。そして映画の最後には、主人公たちもまたこの世界の外に去って行くであろうことを暗示して終わるのだ。

 華やかな上流社会の生活が、虚しく崩れ去っていく様子がじつにリアルに描かれている。映画の序盤から中盤までは、家に出入りしているのは母親の友人や仕事関連の人間ばかり。その中で子供たちの存在は、外部に追いやられているように見える。部屋の鍵を開けっぱなしにしたまま恋人とのセックスにふける長男は、そうすることでかろうじて「家族」との接点を維持しているようにも見える。(単に露出狂気味であることも否定できないけど。)だが家への客の出入りは徐々に少なくなる。映画の後半になると、母親の客はもう誰もいない。家にやってくるのは息子や娘の友人たちだけだ。同時にこの家では、日常的な支払いにも滞るようになってくる。近所の食料品店に支払う金すらない。何度も支払いが滞るので、ツケでものを買うこともできない。一家の主人である母親は、子供たちのポケットや貯金箱の中から小銭をかき集め、使用人から金を借りる始末だ。でも奇妙なことに、そこにはそれほどの深刻さが感じられない。まだ「なんとかなる」と思っているのだ。

 母親が最後通牒を突きつけられるシーンのなんという残酷さ。家を久しぶりに訪ねてきた客は、彼女の目の前に現金の詰まったトランクを突き出して「家を売れ」と迫るのだ。家を売りたくない彼女が相手に家の思い出を語ると、相手はそれを「売り渋って値をつり上げている」と解釈する。「あと2万ドル上乗せするわ。それで終わりよ」とピシャリ。

 ぐるぐる旋回し続けるカメラワークが印象的。一家がその場に留まろうとしても、時間は流れ続ける。その時間を象徴するようにカメラは動くのだ。

(原題:Zona sur)

第22回東京国際映画祭 コンペティション部門参加作品
配給:未定
2009年|1時間48分|ボリビア|カラー
関連ホームページ:http://www.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=21
関連ホームページ:The Internet Movie Database (IMDb)
DVD:ボリビア南方の地区にて
関連DVD:ファン・カルロス・ヴァルディヴィア監督
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