副王家の一族

2009/09/14 松竹試写室
シチリア貴族の没落と再生を描く大河ドラマ。
まるで19世紀版の『ゴッドファーザー』だ。by K. Hattori

Ichizoku  強大な権力を手に地域の顔役として君臨し、家族の前でも独裁者として振る舞う偉大な父。時代が大きく移り変わっても、父は手にした権力を決して手放そうとはしない。息子はそんな父を反面教師として生きてきたつもりだったが、父が病に倒れると息子としてその巨大な権力を継承し、父親と同じ道を歩んでいくのだった。映画『副王家の一族』はシチリアの貴族一家が織りなす人間の愛憎を、息子の視点から綴る大河ドラマだ。

 フェデリコ・デ・ロベルトの原作は19世紀末に書かれ、ヴィスコンティの映画『山猫』の源流にもなったとされる小説。原作は一家に仕える使用人の視点から一族の栄枯盛衰を描いているようだが、映画は主人公として父の遺産を相続するひとり息子の視点を導入している。しかしその結果、この映画はコッポラの『ゴッドファーザー』と瓜二つの映画になった。一方はシチリアの貴族階級の物語で、一方はそのシチリアから新天地アメリカに逃げ出したシチリア系マフィア一家の物語ではあるが、父と息子という人間関係を軸に、親族や取り巻きの愛憎ドラマが濃密に絡み合っていく様子がそっくりなのだ。大きな時代の移り変わりを描いている点も似ている。一方は王制が廃止されて共和制に移行していく時代。一方は20世紀初頭の貧しい移民たちが、第二次大戦後に社会の中で一定の地位を獲得していく姿を描いている。

 ただしふたつの映画で大きく異なっているのは、親子関係の描き方だろう。『ゴッドファーザー』のヴィトーとマイケルは深い愛情に結ばれた親子だが、『副王家の一族』のジャコモとコンサルヴォは最初から最後まで徹底的に憎しみあっている。これは「父の愛情を息子が誤解した」とか「憎しみの裏側には深い愛情が」といった、時にありがちな屈折した親子関係を描いているわけではない。この親子、本当に本気で互いを憎んでいる。そこに第三者の好意的な解釈が入り込む余地はまったくない。父は息子を「我が家に入り込んだ悪運」として忌み嫌い、自分の手もとから徹底して遠ざけ、最後には財産を取り上げて勘当することすら考える。そうできないのはこの息子が、父親にとってたったひとりの跡取り息子だからだ。一方息子も自分が父に恨まれ憎まれていることを十分に自覚し、子供時代から父親の愛情を得ようなどという気持ちはなくしてしまっている。父は息子を呪い、息子は父を怨嗟する。こうした親子間の亀裂が、物語のテーマにも関わってくることになる。

 この息子はさんざん父親を怨み、憎しみ、軽蔑していたくせに、父が死んだらちゃっかりとその遺産を継承して後釜に座ってしまうのだ。父と和解したわけでもなければ、そのの弱さを知ってゆるす気になったわけでもない。この息子は父から「権力に対する貪欲さ」をそっくりそのまま継承した。権力を掌握し続けるためなら手段を選ばぬ冷酷さを、そっくりそのまま引き継いだ。映画のラストシーンもまた、『ゴッドファーザー』の裏返しとなっている。

(原題:I vicere)

晩秋公開予定 Bunkamuraル・シネマ
配給:アルシネテラン
2007年|2時間2分|イタリア、スペイン|カラー|シネマスコープ|ドルビーSRD
関連ホームページ:http://www.alcine-terran.com/ichizoku/
関連ホームページ:The Internet Movie Database (IMDb)
DVD:副王家の一族
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