2002年のニューヨーク。古びた録音スタジオで、ひとりの中年女性が映画撮影のインタビューに答えている。彼女の名はプチ。1970年代から80年代に活躍したサルサ歌手、エクトル・ラボーの妻だった女性だ。彼女はインタビューアーに問われるまま、彼女の知る夫ラボーの生涯について語り始める。
エクトル・ラボーは今でも多くのファンを持つ伝説的なサルサ歌手で、トロンボーン奏者のウィリー・コロンと共に1970年にニューヨークでサルサが誕生する現場に立ち会った人物でもある。(映画の中ではコロンとラボーが出会ってコンビを組んだことが、サルサを生み出したことになっている。)彼はプエルトリコからニューヨークに渡ってすぐに歌手として大成功。しかしその裏側で、生活は荒んだものになっていく。酒と麻薬と女に明け暮れる毎日。やがて精神のバランスを崩して入院。退院後も麻薬と縁を切ることはできず、麻薬常用者の常でHIVにも感染してしまう。1988年にホテルの部屋から飛び降りて自殺未遂。この時は九死に一生を得るが、5年後にはエイズで死んだ。ラボーはラテン音楽業界における、破滅型の天才歌手なのだ。
映画はそんなラボーの生涯を、現代を代表するサルサ歌手のひとりであるマーク・アンソニーが演じてサントラも担当。彼の妻ジェニファー・ロペスは劇中でもラボーの妻プチを演じ、同時にこの映画のプロデューサーでもある。彼女は昔ベン・アフレックと付き合っていた頃、アフレックとの共演作『ジーリ』に出演して大失敗したことがあるし、正直「夫婦共演」には嫌な予感がしないでもなかったのだが、映画は伝記映画としてごく順当な仕上がりぶり。彼女の太々しさや図々しさが、劇中のプチのキャラクターとうまく重なり合ってなかなかのものだった。映画全体の構成はプチの回想形式になっているのだが、プチの個人的な視点で全体が作られているわけではなく、これは回想形式にした方が時間が節約でき、プチを解説者にすることで話がわかりやすくなるという配慮もあるのだろう。
僕はエクトル・ラボーという歌手をまったく知らなかったので、とりあえずその人物について知ったというだけでもこの映画を観る価値はあったかもしれない。ただし映画作品としてはだいぶ物足りないのも事実だ。カリスマ・シンガーだったエクトル・ラボーの光と影のうち、「影」の部分にばかりエピソードが偏り、世界中の人々を魅了したラボーの「光」の部分が弱いのだ。ライブ演奏シーンの演出には力が入っているが、それが映画としては迫力不足であるように思える。ここには「観客」の姿がない。ラボーの歌声に熱狂する「ファン」の視点がない。身近な人にとってラボーは酒と薬と女にふける厄介な男だが、ファンにとってのラボーはまた違ったはずではないか。ステージの上で観客の視線を釘付けにするラボーがいてこそ、私生活の暗さもより底知れぬ暗黒になったはずだ。
(原題:El cantante)