1928年3月10日。ロサンゼルス市内の自宅から、9歳の少年ウォルター・コリンズが行方不明になった。事件から5か月後、警察から母親クリスティンに子供を無事保護したという連絡が入るが、彼女の前に連れてこられたのは行方不明のウォルターとは似ても似つかぬ赤の他人だった。母親はすぐ間違いを指摘して再捜査を訴えるが、警察は「あなたの思い過ごしだ」と言って取り合わない。警察の態度に業を煮やしたクリスティンは、マスコミを通じて警察の間違いを告発するが、これに腹を立てた警察は彼女を精神病院に強制入院させてしまう。同じ頃、ロサンゼルス郊外の養鶏場では恐るべきことが起きていた……。
これが実話だというのが、おそらくこの映画にとって最大の驚きだろう。20人以上の少年が犠牲になったとも言われるゴードン・ノースコットによる「ウィネビラ養鶏場殺人事件」も確かに恐ろしい。しかしそれより不気味で恐ろしいのは、腐敗しきった当時の警察が、事件被害者であるヒロインを追い詰め社会的に抹殺しようとしたことだ。これまでも警察の腐敗や不正隠蔽体質を描いた映画は数多く作られている。しかしここまであからさまな腐敗と不正が、作り話ではなく実際に存在したということに驚かされない人はいないと思う。
イーストウッドの演出は歴史の中から掘り起こされた事実を、淡々と再現していくことに専念しているように見える。個々のエピソードも特に過剰な熱を帯びることはなく、じつに控え目なのだ。1920年代末から30年代半ばの風景を、発色を抑えた品のいい画面として構成していく。こうした一種の「静かさ」が、アンジェリーナ・ジョリー扮するヒロインを二重三重に取り巻く抑圧を浮き彫りにしていくことになる。女性に対する差別や、母子家庭に対する差別。女が男に向かって対等な口をきくのは許されない時代だ。それがいかに正しいことであったとしても、女は男に向かって何かを要求することは出来ない。女は男に「お願い」することしかできなかったのだ。その禁を破った女がどんな目に遭わされたかは、精神病院の中のエピソードで象徴的に描かれている。
しかしこの映画は「実話」であることが制約になったのか、物語としてのまとまりが少し悪い。ヒロインと息子の関係性にフォーカスされていたドラマは、次に警察の腐敗に焦点を合わせ、次に連続殺人鬼の逃亡劇を追い掛け、裁判劇になり、最後にまたヒロインと息子の関係に戻ってくる。最初と最後は「母親の息子への愛情」というテーマで全体をまとめているのだが、その間にあちこち道草をして物語が遠回りしているような印象はどうしても残る。終始一貫してヒロインの視点で物語を成立させれば、ドラマはもっと引き締まったと思うのだが……。脚本はJ・マイケル・ストラジンスキー。おそらく事件を調べているうちに、魅力的なエピソードが多すぎて削れなくなったのだろう。
(原題:Changeling)