絶対の愛

2006/12/20 メディアボックス試写室
恋人との究極の愛を求めて整形し別人になった女。
キム・ギドク監督の異色ラブストーリー。by K. Hattori

 『変わらぬ愛とは一種の絶え間ない心変わりである。つまりわれわれの心が、愛する人の持っているすべての美点に、ある時はここが好き、ある時はあそこが好きというふうに、次々に惚れこんでゆくのである。だからこの変わらぬ心は、同じ一人の相手に局限され、その人の中だけに閉じこめられた心変わりにほかならないのである。』(「ラ・ロシュフコー箴言集」175 二宮フサ訳/岩波文庫)

 セヒとジウは付き合い始めて2年になる恋人同士。だがセヒには最近、ひとつの予感に怯えていた。それは恋人のジウが自分に飽きて、他の女性を愛するようになるのではないかという不安感だ。彼から愛され続けるには、彼が他の女性に心を動かされる前に、自分自身がその「他の女性」になってしまえばいい。セヒはジウのもとを去り、美容整形の門をたたく。それから半年後、突然姿を消した恋人に戸惑い傷ついていたジウの前に現れたのは、スェヒというまったく別の女だった。

 恋人に飽きられることを恐れて、美容整形で別人に変身した女性の悲劇。しかしこのヒロインは、単に顔かたちや体型を変えて恋人との関係を新鮮なものにしようというのではない。なんと名前まで変えて、文字通りの「別人」になってしまうのだ。愛とは絶え間ない心変わりだと、ラ・ロシュフコーは言う。それはひとつの真実だろう。永久不変の愛などない。愛とは自らが変化することなのだ。しかしセヒは、永遠の愛のためには「お互い」が変化しなければならないことを忘れてしまった。セヒが変わるなら、ジウも変わる。セヒはジウという中心軸の周囲を、自分が変化しながら移動していくことで永遠の愛が獲得できると考えたが、相手のジウも変化し動いていくのだから、ふたりの関係は中心軸を見失って迷走してしまう。

 極端な設定や、物語全体が循環型になっていることなども含めて、キム・ギドク流のきわめて寓話的な映画になっている。映画の終盤、スェヒがジウとの再会を待ち望む場面は、まるでキリストの再臨を待ちこがれる人々のような切迫感。しかし永遠の愛の対象であるジウを、スェヒは見つけることができない。愛するがゆえに、愛しすぎるゆえに、彼を求め、彼を見失う。しかしスェヒはその中に、自分自身の究極の愛を見いだしていたのではないのか?

 姿を消したジウは、ついにスェヒのもとには戻らなかった。たぶん戻ってしまえばそこでふたりの関係は固定化し、もとの「変わらない関係」になってしまう。究極の愛を生み出す究極の変化とは、常に自分の正体を隠し、姿をくらまし、相手の思い描く幻影の恋人として存在し続けることなのか……。愛は幻想に過ぎない。だが人は幻影を愛するときにだけ、そこには確かな愛を感じることが出来る。なんという矛盾だろう。なんという残酷さだろう。だがここには、愛についての否定しがたい真実が描かれているように思う。

(原題:Time)

3月公開予定 ユーロスペース
配給:ハピネット 宣伝:ムヴィオラ
2006年|1時間38分|韓国、日本|カラー|アメリカンビスタ|ドルビーSRD
関連ホームページ:http://zettai-love.com/
DVD:絶対の愛
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