郵便局で働くチョンヘは、20台後半の平凡な女性だ。一度結婚に失敗し、母親が亡くなった後はアパートで独り暮らしをしている。職場と部屋を往復する毎日は淡々と流れ、何も変化はない。職場の仲間とランチを食べたり、帰りに食事を兼ねて一杯飲むぐらいが関の山。職場の慌ただしさも、近所付き合いのわずらわしさも、彼女の気持ちを大きくかき乱すことはない。そんな彼女が、ある日ふと思い立って猫を飼い始める。その日から、彼女の中で何かが変わり始める……。
ヒロインの日常生活の細々とした描写の中から、やがて彼女が抱え込んでいる大きな心の傷が浮かび上がってくるというドラマ。いったい彼女の過去に何があったのか? 時折見せる突飛な行動の原因はなんなのか? 彼女は何を恐れているのか? そんな謎(ミステリー)を観客の前にチラチラと小出しに見せつつ、物語を長く引き延ばしていくサスペンス……。しかしこの映画、このたったひとつの素材だけで1時間半以上を持たせようとするのは、長編映画としてはだいぶ無理があるのではないだろうか。
この話は、せいぜい40〜50分ぐらいの短編映画にしかならない内容しか持っていないように思う。この映画はどう考えても1時間にも満たない物語の素材を、延々引き延ばして1時間38分に水増ししているように思えてならない。ヒロインの平凡な生活ぶりをただ描写するだけで映画冒頭の30分を使ってしまうのも、そうした水増しの一例だ。彼女の平凡で退屈な日常を描写する過程で、観客にまで退屈な思いをさせる必要はない。
彼女の抱えこんでいる体験は確かに切実な問題であり、それを軽んじるつもりは毛頭ない。しかしその真相暴露を後生大事に映画の最後の最後まで引き延ばし続けた結果、観客の多くはこの出来事をあらかじめ予測し、いかなる真相がそこで明らかになろうと意外性を持たなくなってしまうのではないだろうか。ここにはポンと膝を打ったり、「なるほどそうだったのか!」と観客を納得させるだけのカタルシスがない。カタルシスなきサスペンスに、映画を観る面白さはない。
この物語を長編映画にするなら、ヒロインの内的葛藤のドラマと並行して別の人物のドラマを同時進行させるなり、ヒロインの心の旅の結末に、観客もあっと驚く意外なオチを用意するのが定石ではないのか。例えばそれは、彼女が好意を持つ作家志望の青年のエピソードにもっと踏み込んでいくことかもしれないし、彼女の同僚の生活ぶりと対比させて2タイプの女性像の典型を描くことかもしれない。もしくは彼女の記憶の混乱とからめて、彼女の飼っている猫がはたして実在したのか否かという心理ミステリーを仕立て上げてもいい。方法はそれこそ無数にあるのだ。
この話がダメだというわけではない。しかしこの話だけでは長編映画として弱いのだ。1時間半の映画には、それなりの内容的ボリュームが必要だろうに。
(英題:This Charming Girl)