映画タイトル

2006/08/08 サンプルビデオ
1971年に匿名で発表されたアンダーグラウンド・ムービー。
映像と音楽で綴られる白昼夢。by K. Hattori

 1971年に匿名で発表された、伝説のアンダーグラウンド・ゲイムービー。ボビー・ケンダール(これも偽名だという)演じる青年が、同性愛的な幻想にふける様子を極彩色の映像で紡いでいる。物語らしい物語はなく、いわばイメージ映像が1時間以上にわたって続いているわけで、これを「美しい」と感じるか、「退屈」と感じるかは意見が極端に分かれそうだ。何しろここには台詞さえない。映像と音楽(クラシックなどの既成曲)を組み合わせた、一種のサイレント映画になっているのだ。

 タイトルからも明らかなように、これはギリシャ神話に登場する美少年ナルキッソスをモチーフにしている。ボテオティアの河神ケピソスと、ニンフのレイリオペの間に生まれたのがナルキッソス。その美しさに恋い焦がれた女神や人間の娘たちが大勢いたが、彼は泉に映る自分自身の姿に恋をして身動きがとれなくなり、やせ細って死んでしまったという。死んだナルキッソスは水仙に姿を変えた。(英語でも水仙はnarcissusと呼ばれていて、自己愛と狂気の象徴だとか。)自己愛を意味する「ナルシシズム」という言葉は、ナルキッソスの神話をもとにしている。

 ナルキッソスの神話が自己愛の物語だったように、『ピンクナルシス』もまた自己愛の物語だ。自己愛は他者を寄せつけない。あらゆる事柄が、個人の中で完結している。これはこれでひとつの調和がとれた世界なのだ。映画に登場する世界が美しく見えるのは、それが自己完結した調和と安定の中にあるからだろう。他者が介在する「恋愛」では、こうした安定を求めることはできない。そこには必ず予想もできない波瀾が起き、その波風こそが恋愛の醍醐味でもあるのだ。しかし自己完結型の閉じた世界の中に、そうした波瀾は求めようがない。従ってドラマとしては面白味がないのだが、個々のシーンがすべて調和と安定に満ちた美意識で統一されている美々しい退屈さこそ、この映画が目指そうとしたものなのかもしれない。

 映画の中では主人公の「美々しい退屈さ」と対比させるように、雑然とした社会の醜さを描くシーンが登場する。この部分は音楽が消えて、ラジオから流れるアナウンサーのがなり声のような現実音(実際には同録しているわけではないが、他の場面とは明らかに別種の音だ)が映画を支配するようになる。ラジオとはつまり、「社会とのつながり」だ。この映画の中では、「社会とのつながり」が嫌悪すべき醜い存在として描かれている。これぞナルシシズム!

 僕自身はゲイに対して特に嫌悪感もないようで、こうした映画を見ても気持ち悪いとか不気味だとは思わず、場面によっては美しいとも感じていた。しかしこの映画に登場する美しい男たちの裸体を観てもまったく欲情しない僕には、どうやらゲイ的な素質が決定的に欠けているようだ。それをちょっと残念に感じるのは、ゲイに対する一種のコンプレックスかな??

(原題:Pink Narcissus)

7月29日公開 シアターN渋谷(レイト)
配給:JAP GARDEN、メダリオン メディア
1971年|1時間10分|アメリカ|カラー|スタンダード|モノラル
関連ホームページ:http://www.pink-narcissus.com/
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