太陽

2006/06/02 メディアボックス試写室
ソクーロフ監督が描く終戦前後の天皇ヒロヒト。
人間になろうとした神の物語。by K. Hattori

 ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督が、終戦前後の昭和天皇を描いた問題作。日本ではいまだに天皇問題はタブー視される傾向があり、この映画も日本での公開が危ぶまれていたのだが、小規模ながらも劇場公開されることになったのは喜ばしい。奇しくも公開は終戦記念日に近い8月に予定されている。

 昭和天皇を演じているのはイッセー尾形。ただしここに描かれている昭和天皇は、歴史の中に生きた昭和天皇そのままではない。その姿はソクーロフ監督の目を通して(あるいは脚本を書いたユーリ・アラボフの目を通して)、微妙に姿を変えられている。実際の天皇と映画の中の天皇の違いは、これまで作られた数多くの映画やテレビドラマで、あるいはドキュメンタリー番組の再現ドラマの中で終戦前後の天皇の姿を見ている人ならすぐにわかることだ。この映画には「御前会議」は出てくるが、「御聖断」は出てこない。「人間宣言」は出てくるが、「玉音放送」は出てこない。カメラマンに写真を撮らせる天皇は出てくるが、有名なマッカーサーとのツーショットはない。

 意図的なものか偶然かは知らないが、この映画は日本人のよく知る「昭和天皇の苦悩」や「お人柄」とは別の部分にフォーカスを合わせているのだ。この映画を歴史再現ドラマだと思ってはならない。この映画を作った人たちは、実際の昭和天皇個人にはあまり興味がなかったように思える。彼らが興味を持ったのは、「神が人間になる」という出来事だったのだ。

 映画の中の天皇ヒロヒトは、側近たちから「神」として崇められている。それに対して天皇本人は「私の体も君と同じだ」と言うが、侍従がそれに対して不満そうな顔を見せるとすぐに「冗談だ」と打ち消して見せる。天皇は自分が人間であることを知っている。しかしそれを公言することができない。人間でありながら、神として振る舞わねばならないのだ。だが戦争が終わり、天皇は人間宣言をする。神としての身分を捨てて、ひとりの人間に戻る。だがそうした天皇の決断は、やはりそう容易に許されるものではなかった……、というのがこの映画のストーリーだ。

 戦前の天皇は神が人の姿でこの世に生まれた現人神(あらひとがみ)だが、欧米人がよく知るもうひとりの現人神がいる。それはイエス・キリストだ。彼もまた、人間であると同時に神でもある存在だった。本作『太陽』の中では、天皇の姿がイエス・キリストのパロディのように描かれている。天皇がカメラマンたちに庭師に間違われる場面は、復活したイエスがマグダラのマリアの前に現れた場面のもじり。天皇とマッカーサーのやりとりは、イエスとポンテオ・ピラトの問答を連想させるし、人間宣言をした天皇が皇后に向かって語る「私は成し遂げた」という言葉は、イエスが十字架で最後に発した台詞だ。イエスは人間から神になり、天皇は神から人間になる。ふたりは現人神のネガとポジなのだ。

(原題:Solntse)

8月公開予定 銀座シネパトス
配給:スローラーナー
2005年|1時間50分|ロシア、イタリア、フランス、スイス|ドルビーデジタル
関連ホームページ:http://www.slowlearner.co.jp/
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