アフロサッカー

2006/05/10 映画美学校第1試写室
タイ奥地の少数民族はサッカーの達人揃いだった!
物語がかなりギクシャクしている。by K. Hattori

 映画は世界の共通語。映画の文法は世界のどこに行っても通用する、もっとも普及した「言語」と言えるだろう。映画の中でどうやってストーリーを語り、映画の中でどのように物事を説明するか。こうした事柄に関して、欧米の映画とアジアの映画の違いはない。映画の歴史の中で開発された、絵作りと編集に関する理論は世界のどこでも通用し、映画やテレビドラマの中で世界共通の約束事として使われているのだ。もちろんそこで描かれる中身は、世界各地の文化や習慣に強く制約を受けている。しかしそれは映画という言葉を使って、何を語るかという問題だ。言葉そのものが世界共通であるということとは、ちょっと違う次元の話だろう。

 映画は文字通り世界の共通語なので、我々は世界のどんな映画を見ても、そこに「映画という言葉」の存在を意識することはない。映画の文法はもはや透明なものになってしまっている。これは日本人同士が会話をするとき、そこに「日本語」を意識しないのと同じことだ。だがそこに別の言語が入り込むと、その言葉の違いはとても目立つことになる……。『アフロサッカー』はそんなことを感じさせる、ちょっと異質な映画体験だった。

 ヤクザに借金をしてバンコクから逃げ出した男パオトゥーが、タイ南部で出会ったサガイ族の少年サッカーチーム。裸足でプレーする選手たちのテクニックに魅了され、パオトゥーは彼らをバンコクで開催される地区別対抗戦にエントリーさせる。「サガイ・ユナイテッド」と名付けられたチームは、超絶テクニックで並み居る強豪を蹴散らしていく。しかし都会の風に当てられた少年たちは夜遊びを覚え、寝不足、二日酔い、麻薬、セックスなどで、ボロボロになっていく。有名チームの監督としてマスコミの引っ張りだこになったパオトゥーはヤクザに拉致され、借金返済のために八百長試合をしろと命じられるのだが……。

 この映画は主人公たちのサッカーチームが活躍する話と並行して、サガイ族の村に謎の伝染病が蔓延する話と、その病気の薬を開発しようとする科学者たちの話が同時進行する。一応これらは最後に合流するのだが、それまで相互に何の関係もなくエピソードが切り替わる様子にはひどく違和感がある。そもそもサガイ族の少年たちがバンコクに出て行く理由が、村の危機を救うためだったという動機付けになっているのがわかりにくい。映画の途中でこうした動機はまったく忘れ去られてしまうし、監督のパオトゥーも村の事情についてはまったく何も知らないらしいのが不自然でしょうがない。監督が選手たちの夜遊びをまったく諫めないのも奇妙なら、選手たちを夜遊びに誘う少年の位置づけも不明確。とにかく最初から最後まで、エピソードが未整理なままごちゃ混ぜで、話はずっとギクシャク進行していく。

 これは映画がダメなのか? いやそうではなく、これがタイ映画の文法のようにも思う。なぜかそんな気がするのだ。

(原題:Sagai United)

6月24日公開予定 銀座シネパトス
配給:アートポート
2004年|1時間43分|タイ|カラー|ビスタサイズ|ドルビーデジタル
関連ホームページ:http://www.afro-soccer.jp/
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