シャウト オブ アジア

2005/04/07 映画美学校第2試写室
アジアの歌手たちが合作で新しい歌を作るまで。
TVドキュメンタリーの再編集版。by K. Hattori

 テレビの世界で数々のドキュメンタリー作品を発表してきた、玄真行監督の劇場映画デビュー作。ただしこれは、映画のためのオリジナルの作品ではない。2003年に日韓共同制作され、日本ではBSフジで放送された「アジアの歌」というドキュメンタリー・シリーズがあった。55分×6本構成だった「アジアの歌」を再編集し、2時間7分にまとめたのが映画『シャウト オブ アジア』だ。(プレス資料はこの事実にまったく触れていない。)

 テレビのドキュメンタリー番組は、映画の世界のドキュメンタリーに比べるとかなり幅の広い表現ができる。ニュースや報道のようにあるがままの事実を取材してくるものもあるが、取材する側が何らかの仕掛けを用意して、そこで起きる出来事を記録していくタイプのドキュメンタリーも存在する。旅人と取材チームが一緒に旅をして、そこにある出来事を記録したり、旅人の心の内を探っていく「旅番組」は後者の例だろう。「遠くへ行きたい」とか「ぶらり途中下車の旅」などが旅番組の代表例。『シャウト オブ アジア』も、そんな旅番組と同じ仕掛けになっている。旅人は韓国の人気歌手カン・サネ、沖縄ロックの喜屋武マリー改めマリー、フィリピンの歌手ジョーイ・アヤラなど。

 1本のドキュメンタリー映画として観ると、たった2時間の間に次々と「旅人」が入れ替わって行くこの映画はでき損ないだと思う。本来この映画の中心になる「旅人」は、玄真行監督本人でなければならないはずなのだ。それなのにこの映画の中では、監督がカメラに写らない範囲に逃げて、そのくせ出演している「旅人」に監督自身の思いを代弁させすぎているように思えた。もともとテレビ放送用に取材した素材だから、後から監督に出演しろと言っても無理なのはわかっている。でもそれならそれで、ナレーションなどでどうとでも処理することは可能だったのではないか。

 例えば「これこれこういうつもりで取材を始めました」「取材の過程でこんなことに出会いました」「私はそれについてこう考えました」「結果としてこんなことになりました」という作り手の試行錯誤のプロセスを、観客の目の前にさらすというのもひとつの方法だろう。最初から作り手の側に「意図」があるのに、それを「現場での思いつき」のように見せるのはずるいだろう。

 例えばマリーを沖縄に連れて行って母の墓で何か歌わせようとか、最後に出演したミュージシャンを全員集めてコンサートをやろうとか、そういう「仕込み」は最初から観客に伝えておいた方が絶対にいい。でないと観客に作り手の意図を読み取られた時点で、その場面全体が嘘っぽくなる。「アジアのミュージシャンが集まってひとつの歌をつくりたい!」なら、まずそれを映画の最初に掲げて、歌の制作やコンサート実現までの道のりを、監督自身が歩む「旅」に見立てればいいのです。

4月23日公開予定 渋谷シネ・ラ・セット
配給:東京ビデオセンター
2005年|2時間7分|日本、韓国|カラー|ハイビジョン・シネマ
関連ホームページ:http://www.tvc-net.com/
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