少女ヘジャル

2004/05/12 メディアボックス試写室
トルコ国内のクルド人問題を描くヒューマンドラマ。
いい映画だけど、重いんだよなぁ。by K. Hattori

 トルコのクルド人問題をテーマにしたヒューマンドラマ。物語は97年にアカデミー外国語映画賞を受賞した『コーリャ/愛のプラハ』に似ている。年を取った男が言葉の通じない子供を引き取り育てる羽目になり、苦労しながらも少しずつ心を通わせていくという話だ。ひょっとしたら監督のハンダン・イペクチは、この映画を作る際『コーリャ』を少しは参考にしたのかもしれない。

 舞台は舞台はトルコ共和国建国75周年を迎えたイスタンブール。元判事のルファトは数年前に妻を亡くし、高級アパートに独り暮らしだ。ある晩アパートに大勢の警官がやってくると、向かいの部屋に突入して住人を皆殺しにする。向かいの部屋に住んでいたのは、クルド人の独立派だったのだ。銃弾で穴だらけになったその部屋から、たったひとりで脱出した少女がいた。ほんの数日前に、親戚の手によってこのアパートに連れてこられたクルド人の少女だ。ルファドはこの少女を部屋にかくまうことにするが、彼女のクルド語がさっぱり理解できないのだった……。

 映画のテーマになっているのは、トルコにおけるクルド人問題だ。僕自身は『遙かなるクルディスタン』を観た時に少しトルコのクルド問題について調べてみたけれど、その時はこの問題を遠い世界の出来事だと感じていた。だが『少女ヘジャル』は、同じ問題をずっと身近なものとして感じさせる。それはこの映画の主人公ルファドが、クルド問題に対してまったく無関心だった男として描かれているからだ。

 ルファドはトルコ共和国の掲げる「単一民族国家」というお題目を、何の疑いもなく信じて75年間生きてきた。彼にとって民族自立と独立を掲げるクルド人は、共和国の体制を内部から蝕む獅子身中の虫なのだ。クルド人はトルコ人になるべきだし、いまいましいクルド語はすぐにトルコ語に置き換えられなければならない。彼は警察がクルド人を射殺する荒っぽさに腹を立てつつ、殺された側に対しての同情はまったく感じていない。彼はどこまでもトルコ人なのだ。

 そのルファドが、ある時を境にしてクルド人の苦しい立場に共感するようになる。自分たちの国が抱える欺瞞を知って苦悩するようになる。自分がこれまで生きてきた人生のすべてを、一気に覆すような劇的な転向だ。だが人生の終わりを目前にした男に、今さらこの転向がどんな意味を持っているのか? 映画はルファドと同じアパートの老婦人の恋愛を描くことで、人間はいつでもそれまでの人生を捨て、新しい一歩を踏み出す勇気を持つべきなのだ語っているようだ。

 よくできた映画だと思うが、民族問題や老いというテーマはやはり重たい。映画の冒頭から最後まで、沈痛なメロディーのテーマ曲が何度も繰り返されるのも気になる。なんだかこのテーマ曲だけで、映画全体が黄昏れてしまっているのだ。音楽にもう少しメリハリがあると、映画はもっとよくなったと思う。

(原題:Buyuk adam kucuk ask)

6月12日公開予定 東京都写真美術館ホール
配給:アニープラネット
2001年|2時間|トルコ|カラー|ビスタ|ドルビーSR
関連ホームページ:http://www.annieplanet.co.jp/hejar/
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