ドリーミング オブ ジュリア

2003/11/05 ル・シネマ1(マスコミ試写)
革命前夜のキューバを舞台にした少年の成長物語。
語り口に工夫がなく、キャスティングには無理がある。by K. Hattori


 1958年のキューバ。町で会う人全員が顔見知りという小さな田舎町に育った少年にとって、反乱軍も革命も遠い別世界の出来事に思えた。だが映画を観ている真っ最中に起きた停電が、反乱軍の接近を如実に物語ってもいる。少年の曾祖父は裕福な農場主。祖父のチェはカジノを経営する資産家だが、なかなかの人物で周囲からも一目置かれている。警察署長が反乱軍シンパの学生たちを次々に検挙するなど、小さな町にも不穏な空気が漂い始めている頃、少年は町で暮らす唯一のアメリカ人女性ジュリアと親しくなった……。

 監督のフアン・ヘラッドは幼い頃をキューバで過ごし、革命後に家族と共にアメリカに渡ったというから、この映画の「少年」はそのまま監督の幼い日の姿なのだろう。キューバ革命を、戦闘の最前線から遠く離れた田舎町の、しかも政治とはまったく無縁の少年の視点から描くというのは面白いアイデア。映画の中には当時のキューバの市井の暮らしぶりが、(台詞がすべて英語という点を除けば)生き生きと再現されている。しかし事実や事件をそのまま描けば、それで映画になるというものではない。この映画は年配の男が自分の少年時代を回想するという形式を使いながら、回想形式の利点をまるで生かしていない。省略法や時間の入れ替え、一人称の回想形式を逆手に取った真相の暴露など、この形式を使えば他にいくらでも語り口はあるはずなのに……。

 結局この映画のナレーションは、一人称による回想というより、映画全体にノスタルジックなムードを付加することだけに専念しているのだ。これが面白くない。キューバ出身者の回想談が、赤の他人である観客の興味をどれほど引きつけるというのだろうか。そこに“特別な何か”がなければ、一個人の思い出話など友人宅で見せられる結婚式や子供の運動会のビデオと何も変わらないではないか。何でもない話を“特別な何か”に脚色するのがストーリーテリングの技術であり、何でもない話から“特別な何か”を引き出すのが演出というものだ。この映画は「私が子供の頃にあんなこともあった、こんなこともあった」とダラダラ語り続けるだけで、それ以上の“特別な何か”がほとんど感じられない。

 これは資金調達上の問題があってのことだろうが、ハーヴェイ・カイテルがキューバ人に見えないというのが、まず最初の困った問題だ。しかしそれ以上に困ってしまうのは、タイトルにもなっているヒロインのジュリアが、まるで素敵な女性に見えないことだろう。劇中映画として使用されている1956年の映画『影なき恐怖』でドリス・デイが演じているジュリアと、『ミフネ』や『ハイ・フィデリティ』のデンマーク人女優イーベン・ヤイレを重ね合わせるのはかなり無理がある。ここで必要なのは、観客がジュリアから「ハリウッドの華やかさ」を感じさせることだろう。なんでわざわざデンマークの女優なの?

(原題:Dreaming of Julia)

第16回東京国際映画祭 コンペティション作品
配給:未定
(2003年|1時間49分|アメリカ)
ホームページ:
http://www.tiff-jp.net/

DVD:ドリーミング・オブ・ジュリア
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