沙羅双樹

2003/06/10 映画美学校第1試写室
河瀬直美監督が故郷奈良を舞台に描く死と再生のドラマ。
タイトルは「しゃらそうじゅ」と読むそうな。by K. Hattori

 『萌の朱雀』でカンヌ映画祭のカメラドール(新人賞)を受賞した、河瀬直美監督の最新作。『萌の朱雀』『火垂』などに続いて、故郷奈良で撮影されている。舞台になっているのは古い家並みがそのまま残される、奈良の旧市街「ならまち」。物語はこの町で墨職人を営む麻生家と、近所で小料理屋を営む伊東家を中心としたドラマだが、この映画の主人公は「ならまち」そのものであるように思えてならない。

 この映画の登場人物たちは、全員が「死」を背負って生きている。人間は必ず死ぬ。だから人間は誰しも「死」をその傍らに置いて生きているわけだが、普通の人間はそれを意識しながら暮らすことなどない。だがこの映画の中では、「死」がじつに身近な存在として描かれている。麻生家の長男・圭は、双子の弟・俊と遊んでいる最中に、路地裏で忽然と姿を消してしまう。その行方はついに見つからなかった。それから5年。麻生家の人々は姿を消した圭の面影を背負いながら、日々の日常を生きている。俊のガールフレンド伊東夕も、母から自分の出生の秘密を知らされる。麻生家の人々も伊東家の人々も、親しい人の「死」を背負って今を生きている。

 河瀬直美監督はこれまでの映画でも「死」を描いてきたのだが、そのあとには必ず「再生」と「出発」も描かれていた。「死」を見詰めることは、人を新たに生まれ変わらせるための通過儀礼なのだ。『萌の朱雀』や『火垂』では再生と出発が登場人物たちの「移動」によって表現されていたのだが、この映画では舞台を「ならまち」に限定することで、ひとつの小さな世界の中で営々と営まれ続ける「死と再生」のプロセスがより凝縮されているように思えた。

 今回の映画では「再生」のプロセスを、新たな命の誕生という象徴的な出来事を通して描いている。だがこの「再生」の出来事は、天地がひっくり返るような特別な出来事ではない。子供の誕生という事件は、淡々とした日常の延長にある。だからこそ畑仕事の場面と出産シーンが直接つながり、農作物が我が子同然だという会話と本物の赤ん坊がつながる。命の誕生はこうして日常の中で相対化され、同時に「死」も相対化されていく。生きることも死ぬことも、大きな時間の中ではちっぽけな出来事なのだ。

 映画の中では「ならまち」という場所を通じて、ひとりの人間の命という尺度を超えて流れ続ける「時間」を表現している。人は生きて死ぬ。新たな命が生まれて、自分の命を次の世代につなげていく。映画に登場する「バサラ祭り」もまた、新たな命のひとつなのかもしれない。

 「死」を通して「生」を描こうとする河瀬直美監督の思いは、『沙羅双樹』という映画のタイトルにも明確に表現されている。沙羅双樹とは釈迦がまさに死なんとしているとき、その床の四方に二本ずつあったという沙羅の木のことだという。

7月12日公開予定 シブヤ・シネマ・ソサエティ
配給:日活、リアルプロダクツ 宣伝:日活、ツイン
(2003年|1時間39分|日本)
ホームページ:
http://www.sharasouju.com/

Amazon.co.jp アソシエイト

DVD:沙羅双樹
関連DVD:河瀬直美監督
関連書籍:河瀬直美 (仙頭直美)

ホームページ

ホームページへ