アレクセイと泉

2001/12/12 映画美学校第1試写室
チェルノブイリ原発事故の傷跡を描くドキュメンタリー映画。
小さな村が消えていく。清浄な泉を残して。by K. Hattori

 '97年に映画『ナージャの村』を撮ったカメラマン、本橋成一監督の映画第2作目。前作同様、チェルノブイリ事故の影響で強制立ち退きを命じられながらも、生まれ故郷の村に踏みとどまって暮らす人々を取材したドキュメンタリー映画だ。舞台になっているのはチェルノブイリのあるウクライナ共和国の隣国、ベラルーシ共和国の東端に近いブジシチェ村だ。ロシア国境も近く、映画の中には国境を越えた町まで人々が行商に行くシーンも映し出されている。ブジシチェ村は人口600人ほどの村だったが、チェルノブイリの原発事故後の強制移住政策でほとんどの住民が村を去ってしまった。だがその土地に踏みとどまり、先祖伝来の畑を耕す人たちもいる。そのほとんどは老人たちだ。残存人口56名中、老人が55人。たったひとり残った青年が、この映画のタイトルにもなっているアレクセイなのだ。

 村には住人たちの生活を支える泉がある。この泉が村人たちの誇り。周囲のも森も放射能に汚染されたが、不思議なことにこの泉の水だけは放射能に侵されていない。地下水は何十年何百年という時間を地中で濾過されて泉になる。この村の泉は、チェルノブイリ事故が起きる遙か昔の水らしい。人々はこの水を飲料水などのあらゆる生活用水に使い、さらに洗濯などにも使う。村人たちの毎朝最初の仕事は、バケツと天秤棒を持で泉から水をくみ出し、自分の家へと運ぶこと。これはかなりの重労働だと思うのだが、老人たちは何の文句も言わずにその昔ながらの生活を守っている。政府の勧告に従って村を捨てることだってできるのだ。町に行けばどの家にもちゃんと水道ぐらい通っている。生活は移住してしまった方が楽になるだろう。でも村の老人たちは、あえて不便さのなかで泉を中心とした生活を続けている。その様子がじつに自然で、ごく当たり前のような顔をしているところがいい。昨日までの生活を今日も繰り返すということに、何の躊躇もないように見える。「せめて泉にポンプでも付ければいいのに」と考えるのは、野暮な部外者の意見として村人たちに一笑されてしまいそうだ。

 老人たちがじつに元気。そして器用。老朽化して腐った泉の囲いを修理するため、森から原木を切り出し、手斧1丁であっという間に囲いを作ってしまうのには驚いた。木と木を組み合わせる接ぎの細工を、手斧だけできれいに削り出し、無造作に丸太をごろごろ転がしているように見えて、角の接ぎがぴたりと一分の隙間もなくはまってしまうのだ。プロの大工でも何でもない。普段は百姓仕事をしている爺さまたちが、ごく当たり前にそういう作業をするところがすごい。人生経験の中で、生活に必要な技術として「泉の管理」が身体に染みついている。しかしこの技術を継承する人たちはいないし、継承する必要性すらないのだ。それが放射能に汚染された村の運命なのだろう。のどかでほのぼのした映画だが、その裏側には「放射能汚染」という現実が常に透けて見える。事故が原因で消えた村は数多いのだという。

2002年1月20日公開予定 東京都写真美術館ホール
2月2日公開予定 BOX東中野
配給:サスナフィルム、BOX東中野 宣伝:オフィス ブラインド スポット

(上映時間:1時間44分)

ホームページ:http://www.ne.jp/asahi/polepole/times/

Click here to visit our sponsor

ホームページ

ホームページへ