ひとりね

2001/12/11 シネカノン試写室
モノクロームの映像がヒロインの孤独を強調する。
すずきじゅんいち監督作。主演は榊原るみ。by K. Hattori

 すずきじゅんいち監督が、夫人でもある榊原るみ主演で撮ったドラマ。馬場当の原作を、原作者と鈴木千晶が共同で脚色している。モノクロの暗い画面にスポットライトのような照明効果を施したり、硬質な台詞回しを意図的に取り入れることによって、この映画は小劇場の芝居を観させられているような演劇的空間を作りだしている。ヒロインの夫を演じているのが米倉斉加年なのだが、この人の台詞の発声から台詞にあわせた身体の動かし方まで、まるで舞台劇そのもの。台詞はすべてアフレコだが、このアフレコの録音レベルが人物の位置に関わらず常に一定にしてあることで、台詞が半分ナレーションのように聞こえてくる。そこで語られている台詞は、その場で人物が本当に喋っている台詞なのか、それともその人物の内面から染み出してくる心の声なのか、その境界線がじわじわと溶けていくのだ。

 もちろんこうした演出はすべて監督の意図したものだろう。映画のリアリズムと演劇的な空間が溶けあうことで、そこには現実を超越したシュールレアリスティックな空間が生まれる。日常と非日常の垣根が取り払われ、ヒロインの主観的な幻想と、その場にあるリアルな出来事との区別が付かなくなる。こうした段取りによって、ヒロインが幻視する「もうひとりの私」という存在がごく自然な存在としてスクリーンの中に立ち現れるのだ。

 ヒロインの織江は43歳の専業主婦。ある日の昼下がり、玄関から「ただいま」という声が聞こえてくる。だがそれは夫ではなく、今まで見たこともない若い男だった。「間違えました」と言い残して玄関から出ていく男だったが、翌日の同じような時間になるとその男はまた「ただいま」と言ってやってくる。彼は織江の顔を見ると、そのまま立ち去ってしまう。彼は一体何者なのか。何の目的で家を訪ねてくるのか……。

 高橋和也演じる若い男が、幾度も織江のもとを訪ねながら、いつも玄関先で少し言葉を交わして帰っていくという設定が面白い。彼が立っている場所は、玄関の中ではあるが、上がり框より中には決して入ってこない。この「玄関の上がり框」という場所が、ヒロインの日常と非日常の境界線なのだ。この線の内側には、織江と夫の愛憎と葛藤に満ちながらも性的には満たされることのない世界が広がっており、この線の外側には、心理的な負担は何もないが性の冒険を楽しめる世界が広がっている。ふたつの世界が統合することはない。世界は常に「玄関の上がり框」あたりを境界にして、ふたつに分裂したままなのだ。双方が統合したヒロインにとってのユートピアは、彼女の幻想の中にしか存在しない。しかもそれがかなり突飛な幻想であることは、統合された世界がこの映画の中でカラーで描かれていることでも明らかだ。

 クライマックスは、いつも玄関にしかいなかった若い男が、ふとした拍子に部屋の中へと侵入してくる場面だ。ここは背筋がぞっとして全身に鳥肌が立つような戦慄を覚える。この一瞬だけでも観る価値のある映画だ。

2002年3月16日公開予定 東京都写真美術館ホール、横浜・関内アカデミー
配給:フィルムヴォイス、アルゴピクチャーズ

(上映時間:1時間29分)

ホームページ:http://web-wac.co.jp/group/filmvoice.html

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