ビルマの竪琴

2001/11/09 シネセゾン渋谷
市川崑が自らの作品をリメイクした1985年作品。
中井貴一主演で有名な児童文学を映画化。by K. Hattori

 終戦から40年後の昭和60年(1985年)に封切られた夏休み映画。終戦後もビルマに残って僧侶となり、戦場で散った日本兵たちの慰霊に残る人生を捧げようとする水島上等兵の物語。竹山道雄の同名児童向け読み物を、和田夏十が脚色し、市川崑監督が映画化したもの。同じ顔ぶれで昭和31年(1956年)にも映画が作られているが、これは当然モノクロだった。監督の市川崑は自らの作品をリメイクするにあたり、ビルマの赤い土をどうしてもスクリーンに描きたかったと語っていたように記憶する。映画の内容は、リアリズムとは程遠いおとぎ話だ。そもそも竹山道雄の原作自体が、ビルマの風俗を少しでも知っていれば絶対にかけないデタラメなもの。その細部をどういじくり回そうと、この物語は絶対に成立しないウソだらけなのだ。無理を承知でウソを成立させるには、全体をファンタジーにするしかない。

 この映画の中では、日本兵たちがみんなこざっぱりときれいな格好をしている。とても長い間、ジャングルの中を着の身着のままの格好で逃げ回っていたようには見えない。かつて大岡昇平の『野火』を大映で映画化し、全身がズタボロ、髪もヒゲもツメも伸び放題の垢じみた敗残日本兵を描いた市川崑が、こうした場面でリアリズムをやろうと思えば当然できたはず。でもこの映画はファンタジーだから、あえてそうした演出はしない。日本兵たちが逃げ込む村の長も、物売りのビルマ人老婆とその夫も、みんな日本人俳優が演じている。この映画はそれで一向に構わないのだ。この映画はこうして現実に一定の距離を置くことで、「ビルマ僧から僧衣を盗んだ日本兵が竪琴とオウムを抱えてビルマ中を歩いて回る」という荒唐無稽なドラマを成立させる。ただしそれが感動を生むかというと、それはまた別の話。水島上等兵がビルマに残るのは、ぼろ布のようにビルマの原野で朽ち果てていく同胞たちのむくろを弔うためなのだが、この映画に登場するふくよかでこざっぱりした日本兵の姿からは、なぜ彼らがビルマの地で死ななければならなかったのかが伝わってこないように思う。

 水島上等兵はなぜビルマに残ったのか。それは彼が幾多の同胞たちの亡骸を見て、そこに「ひょっとしたら自分もあの中にいたかもしれない」という連帯感のようなものを感じたからではないのか。自分はたまたま僥倖に恵まれて命ながらえ、日本に帰国することができる。しかしその僥倖に甘えて、同胞のむくろを打ち捨てていくには忍びない、そんなことは絶対にできないという負い目が水島の中にはある。その「負い目」の原因となった事件が、この映画にはうまく描かれていないと思う。理屈では水島の行動が理解できても、それが心に響いてこない。三角山の玉砕に立ち会ったという経験ひとつだけでは、水島のビルマ居残りは説明できないと思う。

 中井貴一は生真面目な水島上等兵を好演。印象に残るエピソードやシーンは数多い。だが映画全体としては、テーマの訴求力が甘い作品になっていると思う。

DVD発売記念イベント オールナイト上映
提供:ポニー・キャニオン

(上映時間:2時間13分)

ホームページ:http://www.ponycanyon.co.jp/wtne/dvd/011121biru.html

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