私は好奇心の強い女

2001/11/09 日本ヘラルド映画試写室
映画における性表現の流れを変えたスウェーデン映画。
映画史的な興味以上に、映画自体がかなり面白い。by K. Hattori

 おそらく僕ぐらいの世代までの日本人は、「スウェーデンは性表現に大らかな国である」という“常識”が通用していた時代を知っていると思う。日本でも最近は性行為を直接連想させる性器の直接描写以外ならたいていの表現が許されてしまうため、ことさら外国のどこそこが性表現に大らかだとか、そこに比べて日本がどうこうという言い方はされなくなってきたと思うが、少なくとも今から2,30年前まで、スウェーデンは世界で一番性表現に大らかな国だった。ひょっとしたら、そうした“常識”を形成する決定的な影響を与えたのが、この『私は好奇心の強い女』という映画かもしれない。1967年に製作されたこのモノクロ・スタンダード・モノラルの劇映画は、翌年アメリカに渡るや「表現の自由」を巡る社会的な議論を引き起こし、ノーマン・メイラーなどの知識人も巻き込んでの裁判闘争に発展。裁判は映画擁護派の勝利に終わり、アメリカはこれが本格的ポルノ解禁の引き金となったという。この映画はそうした意味で、世界の「映画史」に名前の残る作品なのだ。

 主人公のレナ・ニーマンは22歳の演劇学生。中年映画監督ヴィルゴット・シェーマンとは、監督と女優という関係よりもう少し親しい間柄だ。ふたりは新しい映画の準備中。特に政治に深い関係を持っているわけではないレナだが、街頭で「スウェーデン社会に階級は存在するか?」や「非暴力主義についてどう思うか?」といったインタビューを行う。インタビューの中にはマーチン・ルーサー・キング牧師や、後に首相になって暗殺されるパルメ運輸大臣などの姿も見える。映画はインタビューという「現実」と、映画作りをしている監督と女優の物語という「虚構」の間で揺れ動く。やがてレナは、自動車セールスマンのボリエという青年と知り合って恋に落ちる。だが彼に同棲中の恋人がいると知ると、嫉妬に我を忘れて取り乱す。だがそんなレナを、シェーマン監督とスタッフたちが取り囲んでいる。これもまた映画なのだ。こうしてこの映画は、現実と虚構、虚構の中に内包されたもうひとつの虚構(あるいは現実)という二重三重の入れ子状態のままラストまで突っ走っていく。

 映画のスタイルは明らかにゴダールの影響を受けている。映画の中に即興やドキュメントを思わせる要素を入れたり、映画の舞台裏を時折ばらしたりしながら、観客の映画に対する思いこみや予断をはぐらかし、映画を構成している枠組み自体を解体していくのだ。しかしこの映画を全体として見ると、個々のシークエンスやエピソードも含めてかなり綿密に計算されていることがわかる。しかもそれをまったく隠さず、むしろ「計算された演出」を常に観客に意識させることで、映画と観客の距離感にゆさぶりをかけるような挑発性がある。

 公開当時問題になったという性描写そのものについては、今この時点で見ても「こんなものか」という程度。むしろ面白いのは、映画の中に当時の世相や風俗がたっぷり盛り込まれていることだろう。

(英題:I am curious: yellow)

2002年正月公開予定 シネクイント(レイト)
宣伝・配給:日活

(上映時間:2時間2分)

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