トゥルー・ストーリー

2001/11/06 シネカノン試写室
ドラマとドキュメンタリーの境界を無効にするジャリリ監督の真骨頂。
新作映画のメイキングがドキュメンタリーに早変わり。by K. Hattori

 作る映画がことごとく上映禁止になる、イラン国内では札付きの映画監督アボルファズル・ジャリリ。彼がテレビ局から新作作りの条件として持ち出されたのは、プロの俳優を使って映画の“虚構性”を強調しろということだった。ジャリリ監督だって好きこのんで政府に反抗しているわけじゃない。新作『時計の息子』を作るにあたっては、局側の意向を尊重してプロの俳優に出演依頼を行い、あとは主人公を演じる少年が決まるだけという状態にまでこぎ着ける。ところが何人の子供に会っても、ジャリリはしっくりこないのだ。ある日たまたま訪れたパン屋で、下働きをしているサマドという15歳の少年に出会ったジャリリは、彼こそが新作の主役にふさわしいと考えた。テスト撮影もして、主役は彼だとスタッフ一同も納得。だがサマドは足に古い火傷があり、一刻も早く手術が必要なほど症状が悪化しつつあった。

 ジャリリとスタッフは考える。サマドを役から降ろして別の少年を捜すにしても、一度サマドと出会ってしまったスタッフに他の子役は考えられない。サマドの足を治療してから撮影を再開するとなると、撮影まで半年や1年は待機しなければならなくなる。そもそも治療後のサマドが、元通り走れるようになるかもわからない。いっそサマドの足のことは無視して撮影を優先することも考えるが、そうすればサマドは映画完成と引き替えに足を切断するかもしれない。八方ふさがりの中で、ジャリリはまったく別のプランを考える。『時計の息子』の撮影は中断して、これからサマドが足の手術を受けるまでのドキュメンタリー映画を作るというのだ。

 この映画にはジャリリ監督やその家族、スタッフなどが登場し、足に古傷を抱えるサマド少年も本人が登場している。診察シーンや手術シーンなど、現場で実際に撮影している場面も多い。基本的にはドキュメンタリーだ。だが全部がドキュメンタリーではない。映画の序盤、ジャリリ監督が「ドキュメンタリーを作る!」と決断するまでは、どう考えても後から撮影した再現映像だろう。ではいったいどこまでが再現映像で、どこからが本当のドキュメンタリーなのか。それがよくわからない。両者は融合して、ひとつの「作品」の中に混在している。

 映画を観る限りでは、このドキュメンタリーは映画製作と同時進行でテレビ放送が行われていたようだ。映画には小型ビデオカメラを回す監督以下のスタッフや、明らかに放送用機材と思われるビデオカメラを構えるスタッフたちが数多く登場する。テレビを見たと言って少年に声をかける少女や、テレビの反響に驚いて協力を辞退する医師、手術当日の病院に群がるマスコミなども登場している。サマド少年やジャリリ監督を幾重にも取り巻くメディア状況が、この映画を単なるドキュメンタリーとは別種のものにしているのだ。

 ジャリリ監督の上映禁止を解こうと企画され始めたこの映画も、やはりイラン本国では上映禁止らしい。しかしジャリリ監督本人は、確信犯だろうなぁ……。

(原題:YEK DASTAN-E VAGHE'I)

2001年12月26日公開予定 三百人劇場
配給:ビターズ・エンド

(上映時間:1時間26分)

ホームページ:http://www.bitters.co.jp/

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