ノーラ・ジョイス
或る小説家の妻

2001/07/27 映画美学校試写室
大作家ジェイムズ・ジョイスの青年時代を妻の視点から描く伝記映画。
エピソードを繋ぐ芯が見当たらないのが欠点かも。by K. Hattori

 20世紀の文学を切り開いたアイルランド出身の大作家ジェイムズ・ジョイスの青春時代を、妻ノーラの視点から描いた伝記映画。1904年にジェイムズとノーラが出会ってから、1914年に処女短編集「ダブリン市民」を出版する直前までが描かれる。ここに登場するジョイスは、偉大な才能を持ちながらもそれが世の中に受け入れられないことに悩む、貧しい小説家志望の若者なのだ。監督・脚本はこれが3本目の作品で、日本では初めての紹介となるパット・マーフィー。ジェイムズを演じているのは売れっ子のユアン・マクレガーで、ノーラ役はスーザン・リンチ。物語はノーラの視点からジョイス一家を描いていくのだが、僕にはユアン・マクレガーが「天才小説家」にはとても見えず、それがこの映画の致命的な欠点のように思えた。

 どんなに出鱈目な生活をしていても、どんなに無茶苦茶な行動をしても、ユアン・マクレガーは最後にまともでまっとうな生活に戻ってくる。それは彼が本質的に健康で健全な精神の持ち主だからだ……。それがユアン・マクレガーという役者が映画によって作り上げたパブリック・イメージだと思う。それは彼が注目された『トレインスポッティング』の頃からほぼ一貫している。しかしこの映画に登場するジェイムズ・ジョイスというのは、世界の文学史に名を残す天才的な作家です。この映画では、彼の病的なまでの嫉妬深さ、故郷ダブリンへの愛着と憎悪などが繰り返し描かれる。ジェイムズの嫉妬に我を忘れて原稿をストーブに投げ込み、ノーラとの結婚生活も破綻寸前にまでなる。こうした精神のアンバランスさこそが天才の証明であり、創作活動の原動力にもなるのだろう。天才と狂人は紙一重。しかしユアン・マクレガーは最後まで、素朴なアイルランド青年なのです。『ベルベット・ゴールドマイン』の時は、もうちょっと芸術家の狂気が感じられたと思うから、これはマクレガー個人の責任ではなく、彼の個性を理解しないまま脚本を書き演出した監督の責任かもしれない。

 物語に中心となるテーマやエピソードが見えないまま、10年に渡る年月をだらだら描いているというのも観ていてちょっと辛い。ジェイムズはノーラと出会う直前に母親を亡くしており、その時母の願いだった祈りを拒否したことが、彼の生涯に渡る罪の意識を生み出したとも言われている。でもこの事件は「ノーラの視点からジョイスを描く」というこの映画では描かれない。ジェイムズはなぜアイルランドから出ていきたかったのか。彼はなぜアイルランドを憎んだのか。彼と家族の関係はどうだったのか。そんな事柄があまり描かれないまま、ジェイムズの嫉妬や周辺人物達の諍いばかりを描かれても、何が何やらよくわからないではないか。

 ノーラという名前がイプセンの「人形の家」のヒロインと同じ名前だというのなら、そこからひとつのテーマを作り出すこともできたはず。でもこの映画は、そういう工夫をあまりしていない。脚本のアイデア不足だろう。

(原題:NORA)

2001年秋公開予定 Bunkamura ル・シネマ
配給:ケイエスエス 宣伝:楽舎
(上映時間:1時間47分)

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