人間

2001/04/04 アスミックエース試写室
嵐で遭難した船の上で乗員たちを飢えに狂う。
昭和37年の新藤兼人監督作品。by K. Hattori


 昭和37年製作の新藤兼人監督作品。お盆を数日後に控えた夏の日、砂利運搬の仕事を受けるため近くの島に向かった小さな船が嵐で遭難する。乗り込んでいた男3人女1人は全員ケガもなく無事だったが、船のマストは折れ、舵は壊れ、予備の燃料油も流されてしまう。現在位置不明。港や他の船への連絡手段もない。風の吹くまま潮の流れるまま、船はだだっ広い海の上を漂流していく。食料や水は少し余分に積んでいたものの、漂流が長引けばそれらも底をつく。明日の希望が見えない絶望的な状況と飢えと渇きの中で、4人の男女は少しずつ人間としての尊厳を剥ぎ取られて獣になっていく。

 出演は乙羽信子・殿山泰司・佐藤慶・山本圭。冒頭の港のシーンや途中の短い回想シーン、そしてラストシーンに多少他の人たちも出てくるが、映画の大半は漂流シーンなので、この4人だけのシーンが圧倒的に多い。キャラクターとして掘り下げられているのもこの4人だけだし、事実上この4人のみによる映画と考えていいだろう。舞台になっているのは絶海に浮かぶ小さな漂流船。その中では誰も逃げ隠れできはしない。

 漂流の中で明らかにされる、人間の意地汚さや浅ましさ。苦し紛れの自己正当化と他者への責任転嫁。そして猜疑心が生み出す妄想。飢えと疲労がその妄想を現実であるかのように感じさせ、それがさらなる妄想を生み出していく。信仰心と楽観主義が生み出す何の根拠もない希望と、合理的な現状認識と判断力が生み出す刹那主義と悲観的な将来展望。「わしらには金比羅さんがついとるから絶対に助かるはずじゃ。それまで食料を大切にしてなるべく食いつなぐんじゃ」と言う船長と、「どうせ助かりっこないなら、最後まで美味いものを腹一杯食って死にたい」という男の対立。これから長い漂流が始まることを予想している映画の観客は、船長の言葉の方が正しいと感じるかもしれない。でも実際に夢も希望もない絶対的な孤立状態に追い込まれたら、「どうせ明日死ぬのになぜ今苦しまなければならないのか?」という佐藤慶の立場をとらないとは誰にも言い切れない。いざとなれば「粥を吸いながら飢えて死ぬぐらいなら、後先考えず今は腹一杯食っておきたい」「食料は最初から人数で等分に分けてほしい」という佐藤慶的な立場を取る人の方が、圧倒的に多いような気がする。

 「食い物の怨みは恐い」と言うが、飽食の日本で今は誰がその言葉を実感できるだろうか。この映画では、食べ物を巡る人間同士の醜態がこれでもかというほどしつこく描かれる。にぎりめし、焼き鳥、すき焼きなどが登場人物の妄想として描かれるが、そのシズル感は映画を観ている人の食欲すらそそるだろう。

 映画のタイトルは『人間』だが、この映画は極限状態で見られる人間の醜さをたっぷりと描いている。人間は生きるために人間ではない何者かに成り下がる。人間らしさを取り戻したとき、人間はそうした自分の醜態を振り返ることに堪えられなくなってしまうのかもしれない。

2001年5月12日公開予定 シネマライズ
「新藤兼人からの遺言状」
主催:近代映画協会、アスミック・エースエンタテインメント 宣伝:ドラゴンフィルム
ホームページ:http://www.kindaieikyo.com/ (とりあえず)


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