見出された時
「失われた時を求めて」より

2001/01/10 日本ヘラルド映画試写室
プルーストの「失われた時を求めて」の最終篇を映画化。
映像は格調高いが話はチンプンカンプン。by K. Hattori


 20世紀初頭に活躍したフランスの文学者マルセル・プルーストの大長編小説「失われた時を求めて」の最終篇「見出された時」を、フランス・ポルトガル・イタリアの合作で映画化した2時間43分の大作文芸映画。監督は地理出身のラウル・ルイス。「失われた時を求めて」は全部で7篇15巻の大作で、プルーストが息を引き取るまで口述筆記で手を入れ続けていた作品。「見出された時」など最後の3篇はプルーストの死後に刊行されたものだという。この大長編作品の映画化は過去にも何度か企画されているようだが、実現したのは'83年に原作の第1篇「スワン家の方へ」を『ブリキの太鼓』のフォルカー・シュレンドルフ監督が映画化した『スワンの恋』1作のみ。今回の映画は長大なドラマの結末部分だけを描くことで、長大な原作小説全体を俯瞰する構成になっている。おそらくこれが映画化された「失われた時を求めて」の決定版になるのではなかろうか。

 とはいえ僕はプルーストの原作を読んでいない。昔自宅に置いてあった世界文学全集(父親が持っていた)の中には、第1篇「スワン家の方へ」と第2篇「花咲く乙女たちのかげに」が入っていたと思うけれど、僕は見向きもしなかった。文学全集なんてものは時間がたっぷりある学生時代でなければ読めないものだから、僕が今さらプルーストの原作を読むことはまず考えられない。ではなぜ僕は原作も読まずにこの映画を「決定版」などと言えるかというと、たぶん今後この原作を映画化しても、まったく商売にならないだろうと思うからだ。この物語は主人公が自分自身の思い出をたどる自己探求の旅を描いており、明確なストーリーラインを持っていないし、波瀾万丈の冒険があるわけでもない。今後『風と共に去りぬ』や『戦争と平和』を再映画化しようとする人は現れるかもしれないが、「失われた時を求めて」はどうなんだろうか。たぶんこれは、ストーリーを追いかけてどうこうという小説ではないように思う。

 『見出された時〜「失われた時を求めて」より』は原作にほぼ忠実だというが、かなり理解しにくい映画になっている。これはテーマが難解なわけでも、演出手法が難解なわけでもなく、単に膨大な数の登場人物がどんな人なのかまったく理解できないまま、物語が先へ先へと進んでしまうからなのだ。まず登場人物の名前が覚えられない。貴族社会の中の複雑な相関関係がわかりにくい。台詞の中だけに登場する人名もある。回想シーンが多いため、ひとつの役を複数の役者が演じたり、同じ役回りを複数の登場人物が務めたりする。物語は現在と過去を行き来し、数十年の時間をひとまたぎにする自由奔放さだ。エピソードは必ずしも時間通りに並んでいない。原作の読者にはそれぞれ馴染みの登場人物やエピソードなのでしょうが、僕にはさっぱりわからなかった。ストーリーを語る映画なら登場人物をもっと整理するのでしょうが、この原作の場合そうは行かないのでしょうね。この映画を面白がれるのは、原作の読者だけだと思う。

(原題:LE TEMPS PETROUVE)

2001年3月上旬公開予定 シャンテ・シネ
配給:日本ヘラルド映画


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