コヨーテ・アグリー

2000/10/16 ブエナビスタ試写室
ニューヨークでソングライターを目指すヒロインの奮闘。
ブラッカイマー製作にしては力のない映画。by K. Hattori


 人間はそうそう自由には生きられない。取り立てて困難や障害がなくても、思うとおりに生きることができないのが人間というものだ。将来に対する不安。自分自身に対する自信のなさ。周囲の視線に対する恐れ。既成のモラルやルールのしばり。そして人間関係。こうした目に見えない鎖によって、人間の行動は制限されている。何か行動を起こしたいと思っても、「自分にその能力はない」と思ったり、「恥ずかしい」と思うとそこから先には進めない。「あたって砕けろ!」と言うのは簡単でも、「砕ける」ことを考えると足がすくんでしまうのが普通の人間というものだ。「能ある鷹は爪を隠す」ということわざほど、具体的な行動をとらない人間を慰めるものはない。「やればできる」という思っても具体的に動かない限り、「やったけどできなかった」という現実に傷つけられることはないのだ。だからこそ、我々は映画やテレビドラマの中の登場人物たちが、それらの目に見えない鎖を断ち切って目標に向かって進んでいく姿に喝采を送る。そして「自分でも同じことをすれば同じように成功できるのではないか」という淡い幻想を抱きながら、何も行動を起こさない平凡な日常に埋もれている。

 僕がこの映画を観てイライラしてしまうのは、この映画のヒロインが「やればできる。でも私はやらない」という自己欺瞞の殻に閉じこもり、そこから出てこようとしないからだ。ソングライターを目指してニュージャージーの田舎町からニューヨークに出てきたヴァイオレットは、デモテープをレコード会社やエージェントに送り付けてはみるものの、自分でライブをやろうとか、コンテストに出場して自分の歌を披露しようとは思わない。「私は母譲りの舞台恐怖症だから、人前で歌なんて歌えない。私は自分の歌を客席から聴きたい」というのがヴァイオレットの言い分。でも安アパートの屋上で弾き語りをしているだけでは、事態は少しも前に進まない。ヒロインのぐずぐずした態度を見て、「いい加減に覚悟決めろよ!」と思ってしまうのは僕だけじゃないと思う。こんなイジイジした態度は、「やればできる」を言い訳にして日常を送るつまらない連中と少しも変わらない。僕は映画の中で、主人公が目標に向かって突き進み、あたって砕ける場面を見たいのです。挫折してもそこから這い上がってくる主人公に、僕は喝采を送りたいのに。

 ニューヨークにある実在のクラブ・バー《コヨーテ・アグリー》を舞台にした青春映画です。バーカウンターで繰り広げられる、セクシーな女性バーテンダーたちのパフォーマンスが見どころ。でもこのバーは、単にヒロインがバイトをしているだけの場所で、物語に深く関わってくるわけじゃない。ヒロインの行動もかなりチグハグだし、登場人物を巡るエピソード相互のまとまりも悪い。面白そうな素材はいろいろ映画の中に放り込んであるのですが、物語がまだ練れていないのです。同じ物語でも、エピソードや台詞をもっと磨いていけば、これより何倍も面白い映画になったと思う。少し残念。

(原題:COYOTE UGLY)


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