ある歌い女の思い出

2000/10/12 TCC試写室
チュニジア独立前夜の王宮で働く女たちの物語。
全体の構成がややぎこちない。by K. Hattori


 1950年代のチュニジア王宮で働く、母と娘の物語。チュニジアは18世紀から続くフサイン王朝が弱体化し、19世紀末からフランスの保護下にあった。実質的にはフランスの植民地だ。独立運動は第一次大戦以前からあったが、第二次大戦後に運動が盛り上がり、'55年に自治権回復。翌年には立憲君主制の王国として独立。さらに翌年には王政を廃して共和制に移行する。この映画で描かれるのは、数年後に王政廃止を控えた落日の王宮だ。だがカメラは王宮を出ない。王宮の台所で働いている主人公たちは、自由な外出も制限されている。王宮外の出来事は、出入りの商人から聞く噂話と、ラジオから流れてくるニュースだけ。外部で盛り上がる独立運動をよそに、王宮内では昔ながらの生活が続いている。もちろん王族たちには多少の危機感はある。「我が国もエジプトと同じ運命をたどるかもしれない」と皇太子はつぶやく。エジプトでは'52年にクーデターが起こり、王族は追放されてしまった。だがフランス頼みの国王は、そんな事情も対岸の火事と思っている節がある。台所の女たちも国で起きていることをニュースで知りつつ、どこか自分たちとは別世界の出来事のように考えている。

 かつて王宮で働いていた女が、自分の少女時代を回想するという形式のドラマ。王宮の召使いとして働く母ケディージャから、父親のいない子供として生まれたアリヤ。父親が誰なのか、母は決して明かそうとしない。だが皇太子のシド・アリは、ケディージャとアリヤの母娘に目をかけてかわいがる。ひょっとしたら自分はシド・アリの子供かもしれないとアリヤは考える。だがそれを王宮内で口にする人は誰もいない。それは公然の秘密なのか、あるいは本当に父親が誰なのかわからないのか。召使いの女たちは、王宮から外に出ることができない。王族の男たちが望めば、いつでも夜伽をしなければならない。おそらくアリヤの父は、王族の誰かだろう。だがそれをあからさまに言うことは許されない。

 王宮内の特殊な女社会から、政治の激動を描いている。似たような趣向の映画にはオスマントルコの崩壊をハーレムの女たちから見た『ラスト・ハーレム』という映画があった。だが『ある歌い女の思い出』の面白いところは、この映画が国家の独立や王政の廃止といった歴史のクライマックスを割愛し、その直前から物語を10年後までジャンプさせてしまうことだ。この映画は嵐の前の静けさと、嵐が過ぎ去った後に廃墟のように残る王宮の建物だけが登場する。時代がどう動こうと、人間は本質的にそれとは無関係に生まれて死んでいく。国家体制が王政であろうと共和制であろうと、王宮の中にいようと外にいようと、主人公たちの生き方の本質は変わらない。

 映画は回想シーンの中の話が面白いわりには、10年後の話にボリュームが乏しく、映画の結末もやや取って付けたような感じがする。これならわざわざ回想形式にする必要なんてないと思う。映画版『マディソン群の橋』の方が、こうした点で多少は工夫をしていたよ。

(原題:Saimt el Qusur)


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