地下の民

2000/09/27 TCC試写室
ボリビアのウカマウ集団が作ったあるインディオの物語。
インディオの血に目覚めたとき男は再生する。by K. Hattori


 ボリビアを中心とする中南米で、先住民であるインディオたちと映画作りをしているウカマウ集団の代表作。ボリビアの首都ラパスからほど近い山奥の村で、ある男の葬儀から家族が戻ってくる。男はなぜ村に戻ってきたのか。なぜ死んだのか。ここから物語は過去に戻り、死んだ男の過去をたどっていくのだ。映画には3つの時間が流れている。ひとつは映画冒頭に登場する、男の葬式後の場面。映画は長い長い時間をかけて、この冒頭に再び戻ってくる。しかしこれは映画全体のプロローグであって、中心になるのは残り2つの時間の流れだ。ひとつは、死んだ男の少年時代から現在に至るまでの回想。さらにもうひとつ、ラパスから大きな仮面をかついで村に戻る男の道行き。この2つが縦糸と横糸のように織りなされて、この映画全体の図柄を作り出している。映画は男の死で始まり、印象的な「死の踊り」が紹介され、男の回想シーンと道行きがあり、再び「死の踊り」が登場し、最後は男の死で終わる。導入部と終盤を対称形にすることで、この映画はひとりの男の人生を、神話のような世界に閉じこめることに成功していると思う。

 映画に描かれているのは、ボリビアを覆っている暴力と差別と搾取の体系だ。幼い頃に村を離れ、たったひとりで大都会ラパスで暮らし始めた主人公セバスチャン。彼は都会で名前を白人風に改名して暮らしている。自分がインディオであることを恥じているのだ。インディオに対する差別が、インディオである主人公自身を蝕んでいる悲劇。どんなに名前を変えても、彼は都会の白人やメスティソ(混血)たちからいいようにこき使われ、馬鹿にされている。それどころか、彼は自分を差別する支配者たちの手先となり、左翼運動家たちを抹殺するテロに加わりさえする。都会に渦巻く抑圧と差別の中で彼はアルコールに溺れ、父親の死をきっかけに故郷に戻ることでそこから救い出される。だが彼の中に巣くっている差別意識は抜けない。村人たちも都会暮らしのセバスチャンをもてはやし、彼を村長に祭り上げてしまう。

 インディオたちは独特のアイマラ語を使って暮らしており、町の白人たちはスペイン語で暮らしている。都会暮らしが長いセバスチャンは、両方の世界を行き来できる特権的な人物なのだ。村人たちは彼が都会で身につけた知識や経験や言葉を使って、村に貢献してくれることを期待している。だがセバスチャンは、その能力を使って村への援助物資を横流しする。

 主人公セバスチャンは、ボリビア社会の矛盾やひずみを象徴する人物だ。彼は都会ではインディオとして差別されているくせに、村では他のインディオたちを見下さずにいられない。彼はインディオであるにもかかわらず、白人の世界にもインディオの世界にも住むことができないのだ。「死の踊り」は、そんな彼がインディオの世界に戻ってきたことの証なのだ。彼は自ら死を選ぶことでしか、インディオとしてのアイデンティティを回復できない。だが死の向こう側にあるのは、再生なのだ。

(原題:LA NACION CLANDESTINA)


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