条理ある疑いの彼方に

2000/08/04 シネカノン試写室
死刑制度に異を唱える新聞社社長と作家が一芝居打つが……。
フリッツ・ラング監督のアメリカ時代最後の作品。by K. Hattori


 ナチスの台頭で祖国を追われたフリッツ・ラング監督が、アメリカで撮った最後の映画。死刑反対を唱える新聞社社長オースティン・スペンサーは、娘の婚約者で新作の構想に頭を悩ませている作家トム・ギャレットと組んで、センセーショナルな死刑廃止キャンペーンを企画する。死刑制度が持ちうる最大の危険は、無実の人間を誤って処刑してしまうことだ。この危険をアピールするためには、明らかに無実の人間に死刑判決を下させ、その後、その疑いを晴らせばいい。オースティンとトムは新聞に報道されていた踊り子殺害事件に目を付け、その犯人としてトム自らが死刑判決を受けるようお膳立てを整え始める。疑惑を招きそうな行動と、偽りの証拠品の数々。案の定トムを犯人だと考えた警察と検察は、当初の狙い通りトムを殺人犯として逮捕するが……。

 イーストウッドの『トゥルー・クライム』を観るまでもなく、無実の死刑囚が逆転無罪になるとすれば、その立て役者は弁護士か新聞記者(ジャーナリスト)と相場が決まっている。この映画の着眼点のユニークさは、新聞記者本人がわざわざ証拠を捏造して、実在の殺人事件の犯人に成りすますという点にある。その目的は「無実の人間に死刑判決が下る」という、司法制度の欠点を証明するためだという。死刑廃止論は現代に至るまで、アメリカでも日本でも世論を分断する大テーマ。この映画の物語はそのまま日本にも翻案できそうだが、日本は裁判のスピードが遅すぎてとてもこの映画のようには行かないだろう。裁判開始から判決まで何ヶ月も何年もかかるようでは、この映画はまったく成立しなくなる。

 映画は終盤になって二転三転し、やってもいない罪で死刑判決を受けた主人公が、本当に死刑の危機にさらされることになる。このあたりはあらかじめ予想されていたことだが、演出がうまいのでやはり手に汗握る。用意周到に準備捏造された証拠品の数々が仇となり、自分の無実を証明できないトム。彼の無実を世論に訴えるため、恋人が新聞を使ってキャンペーンを張るが、それでも処刑までの時間は刻々と迫って来る。この単純な時間切れサスペンスの中にも、新聞キャンペーンや、知事と検察官の駆け引きといったエピソードを交え、単純なストーリー展開にしないところはさすがにうまい。

 物語の種明かしそのものに不満も不自然さもない。しかし2番目のどんでん返しがやや唐突に感じられるのは、それまでの伏線の仕込みが足りなかったからだと思う。まったく予想していなかった事柄が種明かしされたとき、まったく予想からはずれていたにもかかわらず、「言われてみればそうだった」と腑に落ちた思いがするのがミステリーの理想像。そういう意味で、この映画の種明かしは少し不細工なものになってしまった。もちろん、そのあともサスペンスを効果的に使って、最終的なエンディングをきれいにまとめてくるあたりはさすがだ。

 ラング監督のアメリカ時代が再評価されてきたのはつい最近の話。この映画は今回が日本初公開だという。

(原題:BEYOND A REASONABLE DOUBT)


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