ムムー

2000/07/05 東宝東和一番町試写室
19世紀ロシアで人間性を剥奪される農奴の生活。
これじゃロシア革命も起きるよなぁ。by K. Hattori


 ロシアの文豪ツルゲーネフの小説を、ロシアのCM業界で数々の賞を受けているユーリー・グルィモフが映画化した作品。舞台は19世紀初頭のモスクワ郊外。多数の農奴を抱える大領地の女主人と、彼女の欲望と嫉妬によってすべてを奪われる男の悲劇を描く。タイトルになっているムムーというのは男が飼っている犬の名前だが、この犬は1時間40分の映画の中で、ほんの10数分しか登場しない。僕はツルゲーネフの原作を未読だが、監督のグルィモフは原作を大幅に脚色しているらしい。

 この物語の主人公は、広大な領地を持つ中年の女主人と、彼女の屋敷に門番として雇われた聾唖の大男ゲラーシムだ。女主人はたまたま通りかかった畑で、黙々と働くゲラーシムを見つけて門番に召し抱える。これは彼女の気まぐれだ。この屋敷の中では数十人の使用人が働いているが、その人事はすべて女主人の気まぐれで左右されている。女主人は若くして結婚したが、放蕩者の夫は早くに亡くなり、彼女には莫大な財産と広大な領地、そして癒されることのない孤独だけが残された。彼女は自分の退屈しのぎと憂さ晴らしのために、農奴たちの人生をもてあそぶのだ。女主人はゲラーシムに性的な欲望を抱くが、それが拒絶されるとゲラーシムと恋人の仲を無理矢理引き裂いてしまう。ゲラーシムは恋人を失って身もだえするが、やがて死にそうな子犬を拾ってきてムムーと名付けかわいがるようになる。女主人は今度はその犬に目を付け、捨ててくるように命じるのだ。

 原作がどうなっているのかは知らないが、この映画の中では女主人こそが主人公。聾唖のゲラーシムは彼女によって筆舌しがたい苦痛を味わうことになるが、これはたまたま彼が女主人の感情の起伏に巻き込まれてしまっただけのこと。いわばトバッチリの災難なのだ。映画の序盤は、ありとあらゆる性的なほのめかしで、女主人の身体にくすぶる欲望の炎を明らかにして行く。領地の中で農奴たちの殺傷与奪の権限を一手に握り、地上の神のように振る舞う女主人。だが彼女の身体には、満たされることのない肉の欲望が眠っている。彼女はゲラーシムと出会うことで、その欲望に火を付けられる。女主人は自分の奴隷であるゲラーシムを生かすも殺すも自由だが、同時に彼に心から愛されたいという矛盾した感情に振り回されるのだ。農場で行われた祭りの夜、女主人はゲラーシムへの気持ちを爆発させる。どうか私を守ってほしい、愛してほしい、抱いてほしいと。だがその言葉は聾唖のゲラーシムに届かず、彼は自分の恋人タチアナとの結婚許可を女主人に申し出るのだ。

 女主人の直接のモデルはツルゲーネフの母親らしいが、彼女がゲラーシムに恋をして、それがかなわぬと知るや逆に彼を憎み目の敵にするという展開は、旧約聖書の「ヨセフとポティファルの妻」(創世記)の話の翻案かもしれない。日本にも継母の恋慕を拒絶して毒を盛られた「しんとく丸」の話がある。こうした男と女の関係は、世界中のどこにもあるものなのかもしれない。

(原題:My-My)


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