越前竹人形

2000/02/15 TCC試写室
水上勉の原作を若尾文子主演で映画化した昭和38年作品。
女のセックスを描ききれずやや中途半端。by K. Hattori


 水上勉の小説「越前竹人形」を、昭和38年に若尾文子主演で映画化した大映作品。監督は吉村公三郎。今回はニュープリントでの上映でした。4月から三百人劇場で開催される、「追悼・宮川一夫/光と影による映画史」の中の1本です。カメラマンはもちろん宮川一夫。鬱蒼とした竹林や、水面の上を滑る渡し船など、情景描写の美しさは一級品ですが、映画としては「佳作」どまりだと思う。物語の悲劇性を前面に押し出すあまり、陰鬱で救いようのない話になってしまったと思う。映画を最後まで観ても、結局何が言いたかったのかさっぱりわからない。ここで描かれているのは、愛し合う男女が運命に翻弄される様子でしょうか? それとも女の業(性)の底知れぬ恐ろしさと、それを理解できなかった男の悲劇でしょうか? あるいは、女の中に“母”を求め破滅する男の滑稽さでしょうか?

 僕は原作を読んでいませんが、ずっと昔、たぶん小学生ぐらいの時に、この話が人形芝居として上演されたのを観た記憶があります。もちろん子供のことですから、男女の感情の機微や、セックスにまつわる話の詳細がわかるはずもない。それでも僕はこの話を、女の肉体から生まれる性的な衝動が、彼女と彼女を愛する若い男を破滅させる物語だと理解しました。僕の「越前竹人形」初体験がそんなものだったので、この映画版で若尾文子扮する玉枝が、昔の馴染みの男に口説かれてつい体を許してしまう場面が少々物足りなかった。ここは夫に性的な不満を持つ玉枝が、お酒の力も手伝って、つい自分自身の性欲に負けてしまう場面ではないだろうか。この映画からは、彼女の夫に対する不満や不安は十分に伝わってくる。しかし彼女自身の身体に刻み込まれた男たちの肉体の跡や、女郎という過去を憎みながらもつい男の肉体を恋しく思う彼女の気持ちが伝わってきません。彼女は男に口説かれたのをきっかけにして、押さえつけてきた性欲を解き放つのです。この映画では、彼女が男から半ば強引に犯されてしまったようにも見えます。でもそれでは、この物語の悲劇性が半減してしまうと思う。

 この映画では夫である喜助がまるででくの坊のように描かれていて、まったく魅力がありません。物語の中心は、常に玉枝の側にある。観客も彼女の境遇に同情し、彼女の側に立って映画を観ている。だからこの場面が少々マイルドになってしまうのかもしれないけど……。彼女が「あの時は無理矢理だったから」「女の私に抵抗などできないし」と自分自身に言い訳するのはわかる。でも映画を観ている側には、それが彼女の自己欺瞞だとわかる演出がほしいのです。男と関係を結んだのは彼女の意思です。だからこそ彼女は、それを死ぬほど後悔することになる。自分の自由意思で取った行動が忌まわしい結果を生むからこそ、それは悲劇なのです。映画では割れた皿などで彼女の「不貞」を印象づける工夫をしていますが、これはちょっと回りくどすぎる。もっと胸をえぐるような描写が欲しかった……。


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